歴史家・作家の加来耕三氏が著した『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』では、“日本資本主義の父”と呼ばれた渋沢栄一だけでなく、目次に出ていない人物(小栗上野介忠順)も含めると、計11人の幕末・明治の起業家が登場する。

 前回まで加来氏には、渋沢栄一のすごさを語ってもらったが、著書で取り上げた起業家の中から、特に今のコロナ禍の時代に参考となりそうな人物を、もう2人挙げてもらった。

 今回はそのうちの1人、“日本のセメント王”となった浅野総一郎について語ってもらう。何度失敗しても、誰も考えなかったことに挑戦し、再起して、事業を拡大し続けたという浅野。なぜ、それが可能だったのか。今の時代に、その生き方がどのように参考になるのか──。

(取材:田中淳一郎、山崎良兵 構成:原 武雄)

 渋沢栄一と同じ時代に生きていた人物に、一代で財閥を築き、のちに“日本のセメント王”と称された浅野総一郎がいます。彼もコロナ禍の中で、事業継続が難しいといった今日に、ぜひにもいてほしいキャラクターだと思っています。

 浅野は、何度失敗してもへこたれず、そのたびに立ち上がった不屈の男であり、失敗を繰り返すたびに逃げる、“逃げ続けた男”でもありました。

 逃げることは、決して褒められたことではありません。ですが、逃げずに真面目に踏ん張っても、体や精神を壊してしまっては、潰れてしまいます。それよりは、逃げたほうがマシではないでしょうか。とくに浅野の場合、逃げるときにいったん立ち止まって、「なぜ駄目だったのか」と考えているところが、のちの成功につながりました。

嘉永元年(1848年)、越中国氷見郡薮田村(現・富山県氷見市)生まれ。幼名は泰治郎。その後、惣一郎。総一郎と改名したのは、明治26年(1893年)。渋沢栄一より8つ若い。(画・中村麻美)

 彼は、ペリー来航の5年前、嘉永元年(1848年)3月に越中国氷見郡薮田村(現・富山県氷見市)の裕福な医者の家に生まれましたが、父親と6歳で死別したこともあり、同じ町医者の養子になります。14歳の頃には養父の診療の手伝いをするようになり、いずれ町医者になるものと本人も思っていました。

 ところが文久元年(1861年)、コレラが越中で大流行すると、この未知の病に何も手が打てないまま、彼は生家に逃げ帰るのです。これが最初の逃亡でした。

銭屋五兵衛のような大商人になりたい!

 浅野は実家に戻って、母親に「医者は辞めて、銭屋五兵衛(金沢の豪商)のような大商人になりたい」と言い出します。息子が可愛くて仕方がない実母は、まとまった金を渡します。その金を元手に、彼は縮み帷子(ちぢみかたびら)という夏用の着物を織る工場を建てました。これに続いて醤油醸造にも手を出します。

 どちらも社会的ニーズのある商品で、目の付けどころはよかったのです。ですが、どちらも失敗してしまいました。運転資金が続かなかったからです。

 失敗してすべてを失った浅野ですが、代々医者の家系の出で、本人も秀才と評判の高かった彼に、地元の大庄屋から婿養子の口がかかり、その長女と結婚します。婿に入っても大商人を目指した彼は、慶応3年(1867年)に加賀藩(加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩)が奨励する地域物産商社「産物会社」に参加し、自らも起業して、日本海沿岸と蝦夷(えぞ)地を行き来して、物産を買い付け、販売する商いを始めました。

 ところが翌年、新政府軍と旧幕府軍との戊辰戦争が始まり、そのなかで商売が難しくなり、産物会社は破綻します。一発逆転を狙って、越後に米の買い付けに走ったものの、不良米をつかまされて負債をさらに膨らませることに──。

続きを読む 2/4 「次は大丈夫」と楽観的に考えて再起

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