渋沢栄一は武州の豪農だったが、仲間と共に尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を打ち払う)思想に染まり、討幕のために今の群馬県高崎市にあった高崎城乗っ取りを企てるが、これを中止して江戸に出る。江戸では、道中手形を融通してもらい、混乱の京へ──。その後、なんと、将軍家の身内である一橋家に仕えることに。攘夷からも転向し、一橋慶喜の弟、昭武(あきたけ)のフランス留学に随行した。

 今回は、渋沢のこの変わり身について、『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』の著者である歴史家・作家の加来耕三氏が、考察してくれた。

 前回は、渋沢栄一が「『経営者失格』と言われても、渋沢栄一がやりたかったこと」を解説してくれているので、そちらもぜひご参考いただきたい。

(取材:田中淳一郎、山崎良兵 構成:原 武雄)

 私は渋沢栄一の評伝を何冊か書いていますが、書くたびに悩んで筆が止まるのが、なぜ彼が体制(幕府)を倒そうとする“テロリスト”から、体制側に転向していったのかということです。これはどう考えてもおかしい。理解に苦しみます。

 なぜそのような転向ができたのか。

渡仏中、見たことがない黒いコーヒーを出されて、最初に口を付けた渋沢栄一。ダンスに誘われて最初に応じたのも渋沢だ。自らの意志で髷(まげ)も落とした。(画・中村麻美)
渡仏中、見たことがない黒いコーヒーを出されて、最初に口を付けた渋沢栄一。ダンスに誘われて最初に応じたのも渋沢だ。自らの意志で髷(まげ)も落とした。(画・中村麻美)

 結論から先に申し上げれば、私は、渋沢は独り善がりな性格で、その性格があり得ない転向をもたらしたのだ、と考えています。自分さえ頑張れば何とかなる。周りを変えられる。彼は本気で、自分が頑張れば国を変えられる、と思い込む人間だったのです。

封建支配と階級的差別に憤る

 渋沢は豪農の家に生まれますが、若くして幕府の封建支配と身分制度に激しい不信と憎悪を持つようになります。きっかけは、17歳ごろのことだったといいます。

 渋沢が父の名代として、他の近隣の豪農とともに村の代官屋敷へ呼ばれて行くと、代官から御用金が課せられました。御用金は税金である年貢ではなく、返済されることのない強要された寄付です。他の豪農たちは即座に「上意をお受けいたします」と返答しましたが、渋沢は「父に伝えて改めてお受けにまいります」と答えます。

 すると、床の間に座る代官は、下座で平伏している渋沢を見下ろして、「百姓の小倅(こせがれ)が」と嘲弄した。渋沢を、腹立ちと口惜しさが襲いました。

 寄付を申し付けながら、なぜあのように高圧的な態度で命じるのか。なぜ嘲られなければならないのか。その怒りが、封建支配と階級的差別への憤りに向けられていったといいます。このエピソードは、大河ドラマでも印象的なシーンとして放送されていました。

続きを読む 2/4 封建体制の中心、一橋家の要人に

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