近代産業をマイナスからスタートさせた

 近代産業が何一つなかった日本で、渋沢が関与した会社はゼロからというよりマイナスからスタートしなければなりません。製品ができても、そもそも市場がなかったり、ごく小さかったりしたため、利益を生めず、マイナスから脱することがなかなかできない会社もあったということです。

 実はここにも渋沢が、「近代日本資本主義の父」と呼ばれた理由がありました。日本を中央集権化したからだけではなく、近代日本のグランドデザインを描くことができた。フランスで見て、学んだことはここでも役立っていたのです。

 渋沢は、近代企業を合本主義(のちの株式会社形態)で設立することを強調しました。併せて彼は、多くの財界人、産業人を育て、彼らが新しい商売や事業を始めることを奨励し、支援を惜しみませんでした。

 渋沢は若い人材の育成にも熱心に取り組んでいます。東京高等商業学校(現・一橋大学)、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)、岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)などの創設、発展にもさまざまな形で関与しています。

 渋沢栄一は500の会社をつくる一方で、600の社会事業にも関わり、こちらでは華々しい成果を挙げていました。

 その代表的な事業が、東京の困窮者、病人、孤児、老人、障がい者の保護施設「養育院」です。養育院は明治5年(1872年)に創立され、渋沢は明治7年から運営に関与し、明治9年に事務長、明治23年に院長に就任しました。

 欧米の福祉事業は、金持ちが貧しい人に寄付をして終わりです。しかし渋沢は、日本で貧しい人々を救うには、それでは問題は解決しないと考えました。

 生活の苦しい人々を、とりあえず養育院に収容して衣食住を提供する。しかし、それだけでは彼らは貧しさから逃れられない。自立して新たに経済を回す存在にならないと、社会も良くならない。そのために施設内で職業訓練を行い、手に職を付けさせてから、施設を出る仕組みを考えたのです。

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