2011年3月11日、東日本大震災が発生。東京電力の福島第一原子力発電所は地震による津波で冷却機能を喪失し、原子炉の炉心溶融から格納容器の破損、水素爆発、そして放射性物質が外部に漏れる、という深刻な事態に至ります。

 政府、メディアからの情報が不足し、しかも分かりにくかったことが不安を一層煽る中で、当時東京大学大学院の理学系研究科物理学専攻長だった早野龍五先生は、「福島第一原発の構内で放射性物質のセシウムが検出された」というニュースを見て、原子核物理の研究室で働いていた1973年に、東京で放射性物質が含まれた雨が降ったことを思い出します。中国が核実験を行った直後のことでした。

 「ちょっとまずいことが起きているのかもしれない」と思いながら、科学者の習性としてデータを探し始めました。東電のサイトをはじめ、得られる限りのものをウェブ上で探して、原発周辺のモニタリングポスト(空間の放射線量を計測する装置)のデータを見始めます。そのうち、NHKでも解説委員や専門家が出てきて解説が始まった。僕はそうした解説に対して、最初は評論家のような立ち位置で、ツイッターに「今、NHKはこう言っていたけど、それってこういう意味なのかしらね」みたいなことを、140文字に収まる範囲内でツイートしていったのです。(『「科学的」は武器になる』早野龍五著、新潮社 152ページより 以下引用先は本書)

 早野先生のフォロワーはあっという間に15万人にまで拡大します。ツイッターをはじめとするネット上で大量の情報発信が行われる中、早野先生が支持を集めた理由は、その淡々とした「データに基づく事実のみを発信する」姿勢にありました。

 これが過酷な日々の始まりでした。チェルノブイリやスリーマイル島など過去の事故の報告書を読みつつ、家の中で朝から晩までデータをグラフ化し、「こういうデータがありました、グラフにするとこうです」とつぶやくという、シンプルな発信をただただ続ける日々が続きます。しばらくは連日3時間睡眠で、起きている間は食事をゆっくりとる暇もなく、ご飯は一口握りで食べながら作業を続け、気づけばビールの気が抜けていたこともしばしばでした。風呂では寝込んで水死寸前、挙げ句、秋には倒れて東大病院に一泊入院しています。

 発信するにあたって、僕が一貫して大事にしていたことは、「データと文献にあることしかツイートしない」ということです。このことは、徹していこうと決めていました。それは、データや文献に僕が勝手な解釈や判断を加えることはしない、ということです。あくまで物理学者として書けることは、データと文献にあることだけ。それ以上はやらない――そういうルールを自分に課していました。(本書152、153ページ)

 それから10年。ウェブ上での情報発信は増えるばかり、その中からフェイクを見抜くことは難しくなる一方です。「科学的」という言葉が持つ印象も、あまり良くなったようには思えません。「科学を振りかざす」という物言いが、まさかメディア側から出てくるとは。

 しかし、「絶望は愚か者の結論」(※)と申します。
 予測不可能な事態に「科学的」に接し、発信し、それを受け止める方法、そして「科学的」と「人間的」は二律背反なのか否かについて、早野龍五先生に伺います。

(※これ、『エロイカより愛をこめて』の青池保子さんの創作かと思っていたら、ディズレーリの言葉なんですね)

(写真:大槻純一、以下最後の1点を除き大槻氏の撮影)
(写真:大槻純一、以下最後の1点を除き大槻氏の撮影)

「科学的」は武器になる 世界を生き抜くための思考法』、読ませていただきました。実はちょうど今、新型コロナとワクチンがらみのコンテンツに関わらせていただいておりまして、これに絡んだツイッター上でのやりとりを毎日見ているんです。140字の制限の中で、激しく叩いたり叩きかえしたりが行われているわけですけれど、早野先生は本の中で、「科学の世界では、論文に対しては論文でしか反論できないんだ」と述べられています。

そして、論文の内容に批判がある人は、それを自分自身で科学的に検証し、論文にするしかないのです。それが科学です。(本書187ページ)

言われてみれば当たり前なのですが、こんなふうに考えたことがまったくなかったです。そしてこれはきっと、「論文」というスタイルだけの話じゃないのでは、と思ったのですが。

早野:そうね。それは、科学というのは、個人の営みじゃないからなんですよ。

科学は個人の営みではない。

「巨人の肩の上に立つ」

早野:個人の営みではない、というのは、科学者は自分より前の科学者たちが積み重ねてきた歴史の中にいるからです。「巨人の肩の上に立っているから、より遠くを見ることができる」という。

それ、論文検索サイト「グーグル・スカラー」の、トップページに置いてある言葉ですね。「巨人の肩の上に立つ」。そうか、「論文」はこれまでの積み重ねの上にあるものだ、ということか。

早野:数え切れない人々が書いた研究論文の上に、自分が何かを1つ積み上げて、それをまた次の世代に継いでいく、科学にはそういうところがあるのです。

そもそも、140字でケンカするものじゃない。これまでの積み重ねの上で論じ合うもの、それが科学。

早野:はい。そして論文を書く科学者は人間です。なので、「科学に携わる」ということと「携わる人を育てる」ということは、ずっと常にセットになっているし、自分もそうやって育てられてきました。次の世代をどうやって育てていって、どこかで自分のやってきたことを引き継いでいく、それはずっと意識しているし、この本で語りたかったことの1つかなと思います。

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