うれし泣きなら何度泣いてもいいが…
われわれ人間の上瞼(うわまぶた)の内側の隅に、涙腺(るいせん)と呼ばれる涙を出すところがあり、まばたきするたびに、少しずつ涙を分泌している。これは失敗してくやし涙を流したり、成功して嬉(うれ)し涙を流すのと、生理現象としては少しも変わらない。
瞼は自動的に、平均して6秒に1回、閉じたり開いたりするから、1日16時間、起きているとすると、1年間に約350万回、72年の人生ならば2億5200万回、人は泣く計算になる。
うれし泣きならば何度泣いてもいいが、困るのは苦杯をなめて流す涙であろう。
人は誰しも、最初から失敗を望んで、事に臨むことはない。懸命にできるかぎりのことを、やっている。しかし、それでも起きるのが失敗である。
「弘法(空海)にも筆の誤り」という。空海のように、“天下の三筆”に数えられるほどの、書道の達人、博学教養にすぐれた人でも、ときには失敗もするのである。
ちなみに、この諺(ことわざ)は史実であるらしい。『今昔物語集』の巻11の第9話に、「応天門(おうてんもん)の額(がく)、打付(うちつけ)て後、是(これ)を見るに、初(はじめ)の字の点、既(すで)に落失(おちうせ)たり」とあった。
応天門は平安京の政庁・大内裏朝堂院(だいだいりちょうどういん)の南面にある門だが、その額の「応」の字の点を、空海は書き忘れてしまったというのだ。もっとも、都の正門であるからには、その字はより複雑な旧字の「應」であったろうから、書きにくかったともいえるが。
空海がそれで後悔の念に苛(さいな)まれ、くやし涙を流したかどうかは定かではないが、どれほど優秀な人でも、決して例外とはなりえないのが失敗である。
あるいは、唐突に現われる危機、予想を超えた苦難───避けようとしても、巻き込まれる「死地」(生きる望みのないような危険な場所、機会)は誰にでも訪れた。
避けて通れない「死地」に追いつめられたならば、まずは細心の注意を払って、より以上の失敗を起こさないように最善をつくし、遭遇した危機、失敗と付き合い、これを何とか乗り越える工夫をして、生きていくしか方法はない。
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