森本:そうだろうね、だってそうじゃなきゃ宗教戦争って言わないもんね。でもそういうことを勉強している人はみんな知っています。
じゃあ、十字軍とかも別の理由があったということですか。
森本:それは金ですよ、もちろん。
聖地回復じゃないんですか、エルサレム。
森本:聖地というのは全部、利権に関係していますから。場所です、土地です。
新潮社・三辺直太氏:横から失礼します。『【中東大混迷を解く】シーア派とスンニ派 』(池内 恵著、新潮選書) という本で、別にシーア派とスンニ派は教義が対立して殺し合っているんじゃないというお話が載っています。要するに「後付け」という。
全然知らなかったな。
小田嶋:そう思っている人は結構多いですよね。

森本:日本が行った大東亜戦争も、帝国主義的な利権争いがベースですけど、神国日本のためと言って、鳥居をアジアのあちこちに建てました。そういう意味からは、これも宗教戦争と言えますよね。
戦争のときに、愛国心を鼓舞するために宗教を使うというのは、いわば常道。米国の南北戦争なんかもまったくそれです。面白いのは、どっちもアメリカ国民で、どっちもほとんどプロテスタントで、同じ神にお祈りしているんですよ。どっちも同じ神様に「我々を勝たせてください」ってお祈りをして、両方とも成就するはずがない、というのがリンカーンの有名な演説の内容です(第2期大統領就任演説)。
誰も「譲れないもの」がないから回る社会
この本を読んでいて、主役である熱い熱いピューリタン、ロジャー・ウィリアムズさんがなぜ、先住民に対して「寛容」を貫こうとしたか。それは「自分にとって命より大事なものは信仰である。だから、他人にもそういう命より大事なものがあるはずだ。自分のと同じように、大切にせねばならない」という思いがあったからではないか。そう森本先生は述べておられます(136、267、282ページなど)。
森本:そうですね。
「これだけは俺は曲げられないんだ」みたいなものがあるからこそ、「そういう曲げられないものが、おまえにもあるんだろう」という話になって、じゃあ、どう共存させるのよということで、理屈をこね始める。それが「寛容」のロジックにつながっていく。
で、ちょっと気がついてしまったんですが、我々の慣れ親しんだ、さっき出てきた事大主義(長いものに巻かれろ、的思考。前回参照)って、ロジャーさんの信仰のような「世の中が全部否定しても、俺はこれを手放さないんだ」みたいな大事なものを、我々の誰一人として持ってないから成り立っているんじゃないの、みたいな。
森本:そうでしょうね。
あ、そうなんですか(笑)。
小田嶋:そうでしょう。というか、日本のような同質性の高い社会の中での身の処し方と、植民が始まった米国のような、すごく異質な人間ががしゃがしゃいる中での身の処し方ってたぶん違うわけで、日本みたいな8割方同じような人たちが暮らしている、似たような考えの人たちが暮らしている中では、事大主義というのか、あるいは同調圧力というのか、つまりはみんなと同じに振る舞っておくのが安全策なわけだけど、米国ではそうはいかなかったし、日本だってもうきっとそれだけではやっていけなくなってくる。
森本:自分が持っている大事なものがあったとして、でも、それは相手によって半分ぐらいにしてもいいやと思っている。だから、同じように相手にも「大事なのは分かるけれど、そうは言ってもこっちも譲るんだから、あんたも半分は我慢しなさいよ」みたいなことをすっと口に出せる。
値切りにかかるわけですね。
森本:うん。
ああ、それは分かりますね。でも、それが文字通り「命より大事」だと思っている相手も世界にはたくさんいるし、もしくは、これから日本にも増えてくるわけで。まさに「寛容」を考えないと、うっかり値切って本気で怒られて……。
森本:ロジャー・ウィリアムズは絶対自分では曲げられないと信じているから、たぶん相手もきっと曲げられないだろうなと思って、じゃあ、どうしましょうかという話になったわけでしょうね。
小田嶋:寛容というものは、たぶん我々にとっても、誰にとっても同じなんだろうけど、面倒くさいものなわけですよ、ツールとして寛容を持ち出さなきゃいけない事態、ということは、異なる価値観を持った人たちと付き合う場合がほとんどだろうから、なるべくだったら使いたくないわけですよ。
身内の間では、寛容じゃなくて、もっと生のぶつかり合いでもって暮らしているわけだから、寛容を持ち出さなきゃいけないということ自体が、そもそも疲れる。だから、普段は楽に暮らしている私たちは、異文化との接触そのものを嫌がると。
分かります。そこに何かロジャー・ウィリアムズから学べる突破口がないか、という話になるわけですが……。
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