「人は未知のものには不寛容に、既知のものには寛容になりやすい」と、『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』の著者、森本あんり先生(国際基督教大学人文科学科教授)は言う。そして、宗教を信じる人は、「多くの宗教に真実がある。だから他人の宗教も(自分の宗教と同様に)尊重せねば」と考えるのだという。
その実証例が、「燃えるような信仰を持つピューリタンと言えるが、そうであるからこそ異端や異教には徹底して寛容を貫いた」ロジャー・ウィリアムズ(1603年ごろ~1683年)。自らの信仰に忠実なあまり、母国である英国を離れて米国へ渡り、上司や恩師といえど「違う」と思えば容赦なく攻撃する「ザ・空気を読まない男」。
その一方で彼は、先住民から正式に土地の利用を認めてもらうべく、その社会に溶け込み、彼らの信頼を得て、ついには正式の契約も結んでしまう。口だけではなく、本気で「異質な隣人」への寛容を貫いてしまった男なのだった。
「その内側の倫理を探ることで、われわれは容易に不寛容に転ずることのない『筋金入りの寛容』とはどんなものであるかを知ることができる」(『不寛容論』、11ページ)
自分と「異質」と感じたもの、「不愉快な隣人」に対して、人はどのように振る舞うべきかを、ロジャーから学ぶことが果たしてできるのか。森本先生と高校時代の級友である、当日経ビジネス電子版の長寿人気連載の著者、小田嶋隆氏との対談でお送りします。(司会:編集Y)
スイス・ジュネーヴの宗教改革記念碑に刻まれたロジャー・ウィリアムズ像(撮影:森本あんり)
(前編から読む)
小田嶋:中世の「寛容」は、もっと実用的というか、身も蓋もないよね。「異端」と「異教徒」の違いがすごく面白かった。
異端よりも異教徒への扱いの方がずっとぬるいというか、緩い。対して同じ宗教の中での反逆者である、異端に対してはめちゃくちゃ厳しいという。
小田嶋:身内のはずの異端には厳しくて、異教徒には寛容を発動するわけですよね。それが、宗教を知らない外部者から見るとすごく分かりにくいポイントで。
森本:ああ、そうか。まず、異教徒というのはいわば自分たちの命令系統の中にいない存在なんだから、命令に従うも従わないもないわけじゃないですか。だけど異端者というのはいったんそこに「入ります」って、自分で宣言して入ったんだから、だったら従えよと。従わないんだったら追い出すぞという話で、すごく不寛容に。
例えばうちの会社で言えば、私が異端で小田嶋さんが異教徒です。小田嶋さんが締め切りを破るのはスルーされるんですよ、しょうがないなって。でも小田嶋さんの担当編集の私が破ると「おまえ、何をやっているんだ」と。
森本:そりゃそうだよ(笑)。内輪の人間には厳しい。
小田嶋:それはそうだね、そういうことですね。
納得されても困るんですけれど。
森本:だからこの場合の「寛容」というのは、外部の人を中に入れる方策、方便なんですよ。本にも書きましたけれど、中に入れても中心に入れてくれるわけじゃないの、周辺なの、あくまでも。
小田嶋:すごくよく分かる(笑)。
森本:ははは。それでも一緒にいられる社会をつくるんですよ。けんかするよりもメリットが大きいならば、寛容をもって接する。これが理屈になるわけです。でも、ルール重視だから、身内がルールを破ることは許さない。
「宗教戦争」という仮構
あれ、でも、「宗教はよく戦争の原因になっている」というイメージがありますよね。宗教は寛容どころか戦争の火種じゃないかという。もしかしてこれも思い込みですか。
森本:はい、「宗教が原因になった宗教戦争」というのは、実はほとんどないんですよ。
おおっ。
小田嶋:なるほど。
森本:全部、口実です、レッテル貼りです。「あいつは悪いやつだ」という決めつけがまずあって、たまたまあいつはカトリックだ、余計けしからん、だからカトリックが悪いんだというふうに後で付ける理由です。
小田嶋:そもそもは土地が欲しかったり、商売の利権が欲しかったり。
森本:石油が欲しかったり。
小田嶋:するんだけど、理屈としては宗教の話に。
森本:そういえばあいつらはイスラムだ、みたいな話になる。
え、え、それって普通の人はみんな知っていることですか、私、今、初めて聞いたんですけど。
森本:そうだろうね、だってそうじゃなきゃ宗教戦争って言わないもんね。でもそういうことを勉強している人はみんな知っています。
じゃあ、十字軍とかも別の理由があったということですか。
森本:それは金ですよ、もちろん。
聖地回復じゃないんですか、エルサレム。
森本:聖地というのは全部、利権に関係していますから。場所です、土地です。
新潮社・三辺直太氏:横から失礼します。『【中東大混迷を解く】シーア派とスンニ派 』(池内 恵著、新潮選書) という本で、別にシーア派とスンニ派は教義が対立して殺し合っているんじゃないというお話が載っています。要するに「後付け」という。
全然知らなかったな。
小田嶋:そう思っている人は結構多いですよね。
森本:日本が行った大東亜戦争も、帝国主義的な利権争いがベースですけど、神国日本のためと言って、鳥居をアジアのあちこちに建てました。そういう意味からは、これも宗教戦争と言えますよね。
戦争のときに、愛国心を鼓舞するために宗教を使うというのは、いわば常道。米国の南北戦争なんかもまったくそれです。面白いのは、どっちもアメリカ国民で、どっちもほとんどプロテスタントで、同じ神にお祈りしているんですよ。どっちも同じ神様に「我々を勝たせてください」ってお祈りをして、両方とも成就するはずがない、というのがリンカーンの有名な演説の内容です(第2期大統領就任演説)。
誰も「譲れないもの」がないから回る社会
この本を読んでいて、主役である熱い熱いピューリタン、ロジャー・ウィリアムズさんがなぜ、先住民に対して「寛容」を貫こうとしたか。それは「自分にとって命より大事なものは信仰である。だから、他人にもそういう命より大事なものがあるはずだ。自分のと同じように、大切にせねばならない」という思いがあったからではないか。そう森本先生は述べておられます(136、267、282ページなど)。
森本:そうですね。
「これだけは俺は曲げられないんだ」みたいなものがあるからこそ、「そういう曲げられないものが、おまえにもあるんだろう」という話になって、じゃあ、どう共存させるのよということで、理屈をこね始める。それが「寛容」のロジックにつながっていく。
で、ちょっと気がついてしまったんですが、我々の慣れ親しんだ、さっき出てきた事大主義(長いものに巻かれろ、的思考。前回参照)って、ロジャーさんの信仰のような「世の中が全部否定しても、俺はこれを手放さないんだ」みたいな大事なものを、我々の誰一人として持ってないから成り立っているんじゃないの、みたいな。
森本:そうでしょうね。
あ、そうなんですか(笑)。
小田嶋:そうでしょう。というか、日本のような同質性の高い社会の中での身の処し方と、植民が始まった米国のような、すごく異質な人間ががしゃがしゃいる中での身の処し方ってたぶん違うわけで、日本みたいな8割方同じような人たちが暮らしている、似たような考えの人たちが暮らしている中では、事大主義というのか、あるいは同調圧力というのか、つまりはみんなと同じに振る舞っておくのが安全策なわけだけど、米国ではそうはいかなかったし、日本だってもうきっとそれだけではやっていけなくなってくる。
森本:自分が持っている大事なものがあったとして、でも、それは相手によって半分ぐらいにしてもいいやと思っている。だから、同じように相手にも「大事なのは分かるけれど、そうは言ってもこっちも譲るんだから、あんたも半分は我慢しなさいよ」みたいなことをすっと口に出せる。
値切りにかかるわけですね。
森本:うん。
ああ、それは分かりますね。でも、それが文字通り「命より大事」だと思っている相手も世界にはたくさんいるし、もしくは、これから日本にも増えてくるわけで。まさに「寛容」を考えないと、うっかり値切って本気で怒られて……。
森本:ロジャー・ウィリアムズは絶対自分では曲げられないと信じているから、たぶん相手もきっと曲げられないだろうなと思って、じゃあ、どうしましょうかという話になったわけでしょうね。
小田嶋:寛容というものは、たぶん我々にとっても、誰にとっても同じなんだろうけど、面倒くさいものなわけですよ、ツールとして寛容を持ち出さなきゃいけない事態、ということは、異なる価値観を持った人たちと付き合う場合がほとんどだろうから、なるべくだったら使いたくないわけですよ。
身内の間では、寛容じゃなくて、もっと生のぶつかり合いでもって暮らしているわけだから、寛容を持ち出さなきゃいけないということ自体が、そもそも疲れる。だから、普段は楽に暮らしている私たちは、異文化との接触そのものを嫌がると。
分かります。そこに何かロジャー・ウィリアムズから学べる突破口がないか、という話になるわけですが……。
ロジャー・ウィリアムズが見いだした道
小田嶋:最後の方に出てきて、これもちょっと不思議だなと思ったんだけど、お互いに譲れない価値観がぶつかる際に、ウィリアムズという人は「礼節」を持ち込むことで対処しようとしたわけですね。
森本:そうです。それを私としては強調したい。
小田嶋:一回りして、人間関係の入り口に戻る、みたいな感じになっていますよね。
森本:うん。やっぱり相手のことを認められない、認めたくないというか、嫌いというか。そういう感情が前提にあった上でなお、礼節は保つ。誰かを否定する際にも礼儀と礼節。これも本に書きましたが、ロジャー・ウィリアムズは決して「みんな違って、みんないい」と思っていたわけじゃないと思うんだよね。違いは認めるけれど、好き嫌いは別だし、言いたいことも言う。
「おまえは間違っている」と正面から理屈で殴り掛かってくる人ですよね。
森本:空気は読まない、議論は徹底的で、相手の立場やメンツにも顧慮しない。だけど礼儀、礼節の一線は守った。相手にもそれは期待した。そういう意味では、「寛容」は最低限の礼節、という言い方もできるのかもしれない。
小田嶋:それを彼はどこから学んだんだろうか。
森本:ウィリアムズはそれを先住民から学んでいるんですよ。僕、そこはなかなか面白いなと思うんだな。
彼は先住民のやっていることを一から十まで褒めたたえたわけではないし、書いた本の中でいろいろ批判もしている。だけど、彼らの生活基盤を脅かしたり、宗教儀式を邪魔したりすることは一切していない。ロジャーの信念と、率直な物言いと最低限の礼節が、かえって先住民に気に入られて、彼らの信頼を勝ち得て、土地を譲ってもらえたりもした。
「俺に大事なものがあるように、おまえらにもあるんだろう」という信念と、最低限の礼節。それがあれば17世紀の、アメリカ大陸の先住民と、英国育ちのピューリタンとの間にも、ちゃんとした関係性が成立した、というのは、この本が見せてくれる大きな救いでもありますね。
森本:まあ、そこまではよかったんだけど、ロジャーはさらに「先住民の方がよっぽどキリスト教的だ」という本まで書いてしまうから同胞から嫌われるわけで……。「ロジャーさん、もうちょっと社会性を身に付けた方がいいですよ」と、僕ですら言いたくなってしまう。
小田嶋:でも、社会性ももちろん大事だけど、この人みたいに「自分が大事と思うもの」をがっちりつかまえていることが、他人に寛容になるためには欠かせない、ってことにならないのかな。
そう言われると、やはり「事大主義」のままでいいのかな、と思いますね。
寛容は「自分が大事なものは何なのか」から始まる
森本:日本全体として見ると、国際社会の中で日本は戦争を経て生まれ変わって、西側社会の一員に迎え入れられて、そのまま優等生になったわけだよね。まじめにアメリカさんの言うことを聞いていい子に育ってきた。
そういう、自分の在り方を半分売り払って優等生であり続けた結果、今、「自分たちの達成すべき目標って何だろう」と分からなくなっちゃって、虚無感にとらわれている。これは個人に置き換えれば、組織の空気に身を委ね続けてきたけれど、定年を前にこの先どうしましょう、と考えているようなもので。
まさしく今の自分です。どうしたらいいんでしょうね。
森本:自分たちが本来求めていた幸福の在り方は、やっぱり自分たちで求めるしかない。人の尺度の優等生であり続けると、知らない間になくなっちゃうんだよ、その目的が。
面白いのは、アメリカ合衆国の独立宣言と日本の憲法がまったく同じ言葉遣いをしているところ。「生命・自由・幸福の追求」という3つのセットのうち、幸福だけは「追求」する権利で、幸福そのものの権利を保障していない。それはやっぱり幸福の中身が人によってさまざまだからでしょう。
そうなると自分は何をしたいんだろうということを本気で考えないといけない。
森本:誰かに自分の価値観を任せていてはいけない。それが宗教である必要はもちろんないけれど。やっぱり自分たちで育てていかないと。その先に、面倒な他者との交渉や礼節が待っていたとしても、ですね。
小田嶋:寛容への道もその先に見えてくるのかもしれないね。
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