小田嶋:寛容を、我々は感情とか作法の問題としてだけしか考えてなくて、論として突き詰めていないでしょう。寛容な人、と言われたら、いい人で、立派な人。寛容じゃない人はだめな人で、心の狭い人だという以上の理解というのは取りあえず持ってないわけだよね。これからはもしかしたら、理屈を言わなきゃいけないのかなと思って。とても面倒くさいことのとば口に立たせてもらいました。面白いけれどすごく考えさせられる本ですよ、頭を使わせられる本ですよ。

森本:少なくとも現実の「他人への寛容」の問題を「この本、1冊で見事に解決」みたいなことを書かれると、え、ちょっと待ってくれよ、そんなことできないよって自分でも思います。そういう本って一時は売れるだろうけど、すぐに役に立たなくなっちゃうんじゃないかなと。

嫌いな相手だから「寛容」ということを考える

小田嶋:そういうことで、この本は考える材料をたんと与えてくれる本。例えば、気がつきにくいけれど「好きな相手には寛容になんてならない。嫌いだから寛容になるんだ」というのも面白い発見でした。

森本:そう。寛容ということには、不寛容がまずあって、だけどそれを何とか相手を認めたいという気持ちを持つということが寛容なんだから、初めから好きなものには寛容になれないんですよ。だからそういう意味では『不寛容論』という題はなかなか正しいなと思ってね。よく考えると『反知性主義』もそうだし、この1個前に『異端の時代』を書いたときもそうなんだけど、「反」と「異」と「不」とでつながってるんです。「異端」と「正統」も同じ構図です。正統というのはぼんやりしていて見えないんですよ。異端があって初めて正統が見えてくる。

寛容を考えるというのは、「あんたのことは嫌いだけど我慢しよう、でもどうすればいいんだ」という話なんですね。

森本:だから寛容論というのは嫌がられるんですよ。

説教くさいとか言われるし、自分の気持ちをごまかすようでどうにも嘘くさい。

小田嶋隆さん
小田嶋隆さん

森本:寛容に“扱われる”側も、オマメで入れてやるよ、みたいに言われたら喜ばない。そういうパラドックスがいっぱいあるんですよね、寛容って。

小田嶋:それを「個人の忍耐」で解決しようとするじゃないですか、日本って。「けんか両成敗」って、何がいけないのかというと、どっちが正しいかじゃなくて、理屈でけんかをしている人たちが一番いけないんだと無理やりに表面上仲直りさせてしまうところなんですよ。教室でけんかした子がいたら、どっちが正しい、じゃなくて、けんかした君たちは2人とも立っていなさい、みたいな。

森本:ああ、そういうことか。

小田嶋:となると、何か疑問があったり、納得できないことがあっても、言わないで黙っているやつが一番偉いというところに帰着しがちな感じがする。寛容論って下手すると忍耐の話になるんじゃないか。

森本:ああ、そうね。属人的な心の広さとか、おおらかさとか、そういうので寛容論を論じる人がいるんですよね。その路線もローマ時代以来ずっとあるんだけどね、実は。

小田嶋:それだとやっぱり修身的な話になっちゃうんじゃないかと思うんだけど、中世の「寛容」は、もっと実用的というか、身も蓋もないよね。特に「異端」と「異教徒」の違いがすごく面白かった。

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