東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の新会長選出問題で渦中の人となった川淵三郎氏。Jリーグ(プロサッカー)、Bリーグ(プロバスケットボール)の創設を主導した「剛腕」ぶりが、改めて注目を集めている。Bリーグ発足時の激動を追ったノンフィクション『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』(大島和人著、日経BP)の一部を抜粋・再構成して、川淵氏の卓抜した指導力の一端を紹介する。

Bリーグの名称・ロゴデザイン発表記者会見に臨んだ川淵三郎氏(写真:長田洋平/アフロスポーツ、2015年9月15日)
Bリーグの名称・ロゴデザイン発表記者会見に臨んだ川淵三郎氏(写真:長田洋平/アフロスポーツ、2015年9月15日)

10年以上解決できなかった問題を4カ月で方向づけ

 Bリーグ発足前、日本バスケ界は、日本バスケットボール協会(以下、日本協会)の運営が混乱し、最高峰のリーグ(以下、トップリーグ)が分裂していた。旧日本リーグからの流れをくむNBLと別に、2005年に発足したbjリーグがあり、バラバラに戦われていた。分裂の一因には「実業団からプロ」という流れに対するスタンスの違いがあった。

 日本協会はコントロールできないトップリーグの存在を許し、FIBA(国際バスケットボール連盟)からはガバナンス(統治)の欠如を問題視されていた。2014年にはFIBAの国際資格停止処分を受け、あらゆる国際活動から日本が締め出された時期もある。

 川淵三郎は、バスケ界を窮地から救うために招かれた。リーグの分立状態からBリーグ創設に至る流れを作った組織が、2015年1月に結成された「ジャパン2024タスクフォース」だ。川淵はその共同議長に指名され、同年5月には日本バスケットボール協会の会長にも就いた。

 FIBAが設定した問題解決のタイムリミットは2015年6月。日本バスケが10年以上にわたって解決できなかった難題を実質4カ月で方向づけする迅速性が求められていた。2015年夏にはリオデジャネイロ・オリンピックの予選があり、解決が6月を過ぎると男女の日本代表が五輪予選にエントリーできない。特に女子は有力なメダル候補だった。

 当時78歳の川淵がここから獅子奮迅の働きを見せる。彼はタスクフォースの議論を主導するだけでなく、バスケ界の現状を自分の目で確かめるべく動いた。新リーグや日本協会のトップを担う人材探しから、両リーグやクラブ、自治体との折衝と精力的な動きを見せた。

 当時の記者会見で、川淵はこう述べている。

 「Jリーグはスタートするときに、5年の準備期間がありました。自分が十分に知ったフィールドで、どういうことが難しくて、どこにアプローチしたらいいのか、よく分かった上で5年かかった。今回のリミットは6月の初めです。ビジョン、トップリーグのあり方、日本のバスケ界を発展させていく工程表と期限も用意して、FIBAがそれを認めて、実施に移る段取りを経なければならない。猶予は4カ月ちょっとしかありません。一番の問題は何と言ってもNBLとbjを、どう1つのトップリーグにするかに尽きると思います」

 「できるだけ多くの人に会って、できるだけ多くの議論を重ねて、月1回の会議のときに、煮詰まったものをいかに出していくか。それが勝負です。そこで色々な話をしてというのでは、スピード感がまったく足りない。bjとNBLの合併問題も、同じような話の繰り返しになった。堂々巡りをさせず、きちんとどう切るかが勝負だと思っています」

続きを読む 2/4 危険な構想

この記事はシリーズ「Books」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。