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 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、真田幸村、上杉謙信……。歴史に名を残す英雄たちは、どのような失敗を経験し、そこから現代の我々は何を学べるのか。日経BPから『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』を刊行した歴史家の加来耕三氏が、独自視点の軽快かつ濃密な歴史物語で、25人の英雄たちの 「知られざる失敗の原因」を明らかにし、ビジネスパーソンに役立つ教訓を浮かび上がらせる。

 今回取り上げるのは「風林火山」で有名な武田信玄。上杉謙信との「川中島の戦い」で知られ、騎馬軍団を率いる強い武将のイメージが強い。信玄の実像は、どのようなものだったのか。加来氏に聞いた。

(聞き手は田中淳一郎、山崎良兵)

武田信玄といえば、軍旗に書かれた「風林火山」が有名です。「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、 動かざること山の如し」。なんだかとても強そうな響きですね。騎馬軍団が有名で、戦争にも強かったイメージがあります。しかし、息子の武田勝頼の代になって織田信長に滅ぼされ、短期間で衰退しました。信玄はどのような人物で、どのような失敗をしたのでしょうか?

加来耕三氏(以下、加来):永禄4年(1561年)に武田家の兵站部門を担ってきた弟の武田信繁を、第4次川中島の戦いで失ったことが、後に響いたということは間違いありませんが、これは不慮の死で、武田信玄の失敗とはいえません。

 最大の長所は最大の欠点につながっています。甲州騎馬軍団といえば、「赤備え」が有名で、甲冑や旗指し物を、赤や朱で塗って目立たせていました。騎兵のみならず、歩兵も精鋭部隊でした。「風林火山」という勇壮なスローガンは、孫子から取って、信玄がつくりましたが、風のごとく、林のごとく、火のごとく、山のごとく、と聞くからに、確かに強そうに聞こえます。

 では、信玄は本当に戦いに強い武将だったのでしょうか? 信玄に対する理解を深めるには、彼がいかにして権力を握るようになったのかを知る必要があります。

 まず信玄は、織田信長よりも一回り上の世代です。当時は地域の庄屋さんが部将で、百姓が足軽をつとめる時代でした。このため部隊は村単位で、田植えと稲刈りの時は戦争を避けていました。相手が来たら、小競り合いをして、メンツがたったら終わりにする。死闘になっては、農業生産者が減り、生産額が落ちて困るからです。

 甲斐国の守護だった信玄の父・武田信虎は、有力な国衆が台頭する中で、力づくで甲斐の統一を進めました。そのお父さんは合戦の利益を独占して、国衆たちに嫌われてしまいます。史実の信玄も、初陣がなかなかやってきませんでした。信玄の初陣は、20歳を超えてからであり、遅かったといえます。

甲州騎馬軍団を率いた強い武将のイメージで知られる武田信玄(画:中村麻美)

 信虎は、文弱に見えた信玄を嫌って、その弟の信繁に家督を継がせようとしていたという話もあります。その後、天文10年(1541年)に、逆に国衆に担がれた信玄によって信虎は追放されてしまいます。これは信玄が言い出したのではなく、「下剋上」で周りの国衆が追い出したようです。「信虎に仕えていても、俺たち(国衆)にいいことはない」と考えて、とりあえず血統上、信玄を担いだわけです。