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妻が生きていたら「本能寺の変」はなかった?

 突然、光秀は本能寺で信長を討つことを決めます。相談を受けた家臣たちは、みんな反対しました。「勝てない」と。信長を殺しても、各地に派遣されている方面軍が全部残っているので、絶対つぶされる。主君を殺されて、他の方面軍司令官が光秀と組むことは考えられない。

 思いとどまる可能性もあったはずですが、光秀の娘婿の明智左馬之助(秀満)がこう言いました。謀叛の話を重臣たちにしてしまった以上、「もうどうしようもない。やるしかない」。そこで光秀は、突っ込んだのだと思います。当時、妻の熙子が生きていたら、家臣たちに相談する前に話し合って、光秀を思いとどまらせていたことでしょう。いえ、その前に引退することを勧めたと思います。

 逆戻りできないところまで、光秀は心身ともに追い込まれてしまった。ビジネスパーソンなら、多すぎる仕事に追い詰められた状況だと考えてください。

 光秀は、感情をあらわにしないことを誇りに思うタイプ。織田家臣の中で一番のインテリといえるでしょう。だからこそ、信長に対する批判も出てくる。それでストレスがたまっていったのではないでしょうか。天正10年(1582年)に開催された武田征伐の戦勝祝賀会で、光秀が信長に殴りつけられた事件もありました。

 『川角(かわすみ)太閤記』などにも書かれているように、「これで我々も努力してきたかいがあった」と光秀が言ったところ、激怒した信長から、これでもかと殴りつけられます。信長に言わせれば、「やったのは俺だ。俺の指図でお前たちは戦った。お前に何が分かるんだ」といった感じでしょうか。しかし光秀には、自らの努力への自負があったはずです。この事件から、本能寺の変まではわずか3カ月です。

 武田勝頼を滅ぼした際、徳川家康は信長の嫡男である織田信忠に、花を持たせるためにわざわざ自軍を遅れさせています。しかし光秀は信長に忖度(そんたく)せずに、自分で自分を追い詰めたように思います。

 繰り返しになりますが、本能寺の変を起こした理由は、激務による疲れだと私は思います。光秀はそれ以前に大病して伏せっていたこともあります。それでも、なぜ働き続けたのか。光秀は責任感もあり、頑張ろうとする性格で、これがよくなかった。ビジネスパーソンでいえば、頑張りすぎて、過労死しやすいタイプなだったのでしょう。