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激務が続いてノイローゼ気味だった?

ここまで高く評価され、厚遇されているなら、主君を裏切る理由が見つかりません。何が光秀を本能寺の変へと駆り立てたのでしょうか。

加来:本能寺のちょうど1年前に光秀が書いた書状では「私は瓦礫(がれき)の中から信長様に拾ってもらい、重く用いてもらった。だからお前たちも頑張れ」と部下たちを激励しています。当時は謀叛する気がなかったようにすら思えます。

 しかし光秀は1年後に本能寺の変を起こしました。当時は光秀の妻である熙子がすでに亡くなっています。NHKの大河ドラマでは、光秀に側室がいないことになっているように、二人の夫婦仲は良かったと伝えられています。

 熙子は“糟糠(そうこう)の妻”で、光秀と何でも語り合える仲でしたが、天正4年(1576年)11月に死んでいました。光秀は真面目な性格ですが、織田家の中では新参で友達がいない。そうなると誰と語り合うこともなく、内にこもるようになりがちとなります。

 信長と光秀はもともと真逆なタイプです。直感的な信長と緻密な光秀は、性格がかなり違っていました。もちろん光秀は信長の天下布武に貢献して、大出世を遂げますが、「これでいいのかな」と思うところは多々あったかと思います。

 私は光秀謀叛の一番の原因は、疲れだったと思っています。信長よりも、どうみても6歳以上年上ですが、激務につぐ激務が続いていました。信長はできる人材にますます仕事を与えるタイプで、光秀を心身ともに追い込んだのかもしれません。

光秀は丹波攻略を任せられただけでなく、同時期に本願寺攻めにも加わっています。丹波は山が多くて攻めにくい土地で、土豪たちも手ごわく、配下の武将の裏切りにも合って、戦いは必ずしも順調ではありませんでした。苦労が多かった光秀は、ノイローゼ気味だったのでしょうか。

加来:本能寺の変の前に、光秀がおみくじを引いて、幾度引いても凶が出た、というエピソードは有名です。疲れ切って、ノイローゼ気味となっていたのかもしれません。最後は自分で自分を追い詰めたようにも思えます。

 「次に自分がどうなるのだろう」という不安は、当然あったことでしょう。30年近く織田家を支えてきた最高幹部の一人だった佐久間信盛が、信長から折檻状をもらって罷免されています。同じく織田家の重臣として活躍してきた林秀貞や、信長の命を受けて各地を転戦してきた安藤守就も、突如追放された事件もありました。

 このまま頑張り続けても「やがて使い捨てにされるのではないか」と光秀が考えるようになっても、おかしくありません。信長は中国地方攻めの後に、九州攻めを考えていました。さらに朝鮮半島に渡り、明国(当時の中国の王朝)を征服することも視野に入れていたとの説もあります。

 中国地方平定後に九州攻めが始まれば、光秀はその方面軍司令官になる可能性が高かった。光秀は、天正3年(1575年)に現在の宮崎県にあたる「日向守」の肩書を朝廷から与えられていました。拝領した姓「惟任」も、九州名門のものでした。

 疲れた頭で考えても、光秀には相談相手がいない。何でも話せた妻はもう死んでいます。そんな中で、信長から任せられた中国地方攻めのための大軍が、光秀の手中にありました。光秀は心中、自暴自棄になっていたのかもしれません。