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秀吉よりも存在感が大きかった光秀

織田家の家臣では、豊臣秀吉がとりわけ優秀だった、というイメージが強いのですが、本能寺の変の前の時点では、光秀の存在感が大きかった。

加来:信長は光秀を買っていました。戦略的に重要な拠点で、京都の近くにあった琵琶湖のほとりの近江坂本城と丹波亀山城の両方を与えられたのは光秀です。信長のかわいがっていた秀吉でも、筆頭家老の柴田勝家でもありません。このような厚遇は、光秀によほどの能力がないと考えられません。

 以前、「『織田信長は短気』という思い込みは間違い」という記事でも触れたように、光秀は信長より高齢でした。光秀の生年には享禄元年(1528年)、永正13年(1516年)などいくつかの説がありますが、いずれにせよ、6~18歳も信長より年長です。18歳年上だとすると、本能寺の変を起こした時点の光秀は60代。残っている肖像画は若く見えますが、実際の光秀はかなりの高齢だったはずです。

 信長の家臣になった光秀は、どのような能力を評価されたのか。一つは語学、通訳的なものだった、と私は考えます。信長はテレビドラマや映画では標準語ですが、実際には尾張出身で「みゃあみゃあ」言っていたことでしょう。信長がのこのこ上洛してきても、足利義昭を始め、京都の朝廷や幕臣たちは何を言っているのか分かりません。

 しかし光秀は、両方の言葉が分かった。美濃にいたならば、尾張と近いのでそれなりに言葉は理解できたことでしょう。このため将軍の近くにいた一方で、信長の側近としても仕えることになりました。詳細は拙著『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』に譲りますが、光秀は武家と宮中の礼法にも詳しいような振る舞いをするなどして、信長に信頼されるようになったと思います。

加来 耕三氏

 その後、光秀は「行政官」として信長に任せられた仕事をそつなくこなしました。それだけではありません。信長が朝倉義景を攻めた時の「金ヶ崎の退き口」で殿軍(しんがり)を務めたのは秀吉と言われますが、光秀も一緒に戦いました。

 「これは使える男だ」と考えた信長は、光秀を丹波攻めの司令官に任命。光秀は苦労しながらも丹波攻略を成功させます。行政官としても、合戦をやらせてもうまい。オールマイティーの才能で、何でもできる。抜群の能力を示したので、信長は畿内を全部任せられると考えたように思います。

 当時の軍事パレードである馬揃(ぞろえ)。信長が天正9年(1581年)に京都で行った大規模な観兵式典「京都御馬揃」を準備した総指揮官も光秀でした。日本にはナンバーツーという言葉はありませんが、光秀は織田家において、その地位にあった人物といえるでしょう。