織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、真田幸村、上杉謙信……。歴史に名を残す英雄たちは、どのような失敗を経験し、そこから我々は何を学べるのか。日経BPから『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』を刊行した歴史家の加来耕三氏が、独自視点の軽快かつ濃密な歴史物語で、25人の英雄たちの 「知られざる失敗の原因」を明らかにし、ビジネスパーソンに役立つ教訓を浮かび上がらせる。
今回取り上げるのは明智光秀。「本能寺の変」で織田信長を自刃させた“反逆者”のイメージで知られている。NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公としても注目されている光秀の実像は、どのようなものなのだったのか。加来氏に聞いた。
(聞き手は田中淳一郎、山崎良兵)
明智光秀といえばやはり「本能寺の変」で、主君の織田信長を討った裏切り者というイメージが強い人物です。最近は大河ドラマの主人公になっていますが、物語と史実では相違点も多いのでは。実際のところ、光秀はどういう人物だったのでしょうか?
加来耕三氏(以下、加来): 光秀が越前(現在の福井県北部)に現れるまでどこで何をしていたのかはまったく分かっていません。光秀を主人公とする軍記物『明智軍記』が書かれたのは、江戸時代中期の元禄年間。ただこれは、江戸幕府265年の歴史の、真ん中の頃につくられたもので、歴史小説の世界といえます。
最新の研究では、光秀は福井県坂井市の長崎にある「称念寺」の門前に、10年くらい住んでいたとされています。同じ頃、のちに室町幕府の15代将軍となる足利義昭が、朝倉義景を頼って一乗谷に身を寄せていました。称念寺とは距離があったので、光秀は朝倉氏に仕官する前の段階だったのでしょう。朝倉の家臣と「連歌(れんが)の会」を催した話が伝承されています。
連歌の会は仕官の機会をねらってのもの。しかし牢人中の光秀には、酒宴を用意するお金がありません。そこで妻の熙子(ひろこ)が髪の毛を売って、費用を工面したという話が『明智軍記』に書かれ、地元でも伝説化しています。
その後、光秀が朝倉家に仕えたとの説もありますが、よく分かっていません。30代はずっと寺子屋で教えていたのか。医者のまねごとをしていたのか。朝倉義景か、足利義昭か、細川藤孝の家臣になったのか。いろいろな説がありますが、そこからワンステップ置いて、織田信長の家臣へと転身します。
『明智軍記』は信用できませんが、信長の一代記である『信長公記(しんちょうこうき)』は史料として信頼できます。例えば、本能寺の変が起きた際の信長の、「是非に及ばず」といった言葉を、著者の太田牛一は(信長の)傍らにいた女官から聞いています。これはルポのメモを取った成果ですね。
『信長公記』によると光秀は、信長に擁されて足利義昭が上洛して滞在していた寺が三好三人衆に攻められた時に、複数の武将の一人として防いでいます。(信長の家臣になった)光秀は石高で1000石の旗本になり、石高がどんどん上がっていきます。
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の動機には謎が多い(画:中村麻美)
光秀は織田信長を討った逆臣で、「信長が殺されずに生きていれば、世の中がどんなにすごいことになったか」という話をよく耳にします。しかし光秀がいなければ、信長が目指した“天下布武”はなっていません。室町幕府の将軍が直接に命令を下せる“天下”は畿内に北陸を足した範囲ですから、信長が朝倉と浅井長政を滅ぼした段階で、一応の“天下布武”はなったともいえます。その功労者が光秀でした。
秀吉よりも存在感が大きかった光秀
織田家の家臣では、豊臣秀吉がとりわけ優秀だった、というイメージが強いのですが、本能寺の変の前の時点では、光秀の存在感が大きかった。
加来:信長は光秀を買っていました。戦略的に重要な拠点で、京都の近くにあった琵琶湖のほとりの近江坂本城と丹波亀山城の両方を与えられたのは光秀です。信長のかわいがっていた秀吉でも、筆頭家老の柴田勝家でもありません。このような厚遇は、光秀によほどの能力がないと考えられません。
以前、「『織田信長は短気』という思い込みは間違い」という記事でも触れたように、光秀は信長より高齢でした。光秀の生年には享禄元年(1528年)、永正13年(1516年)などいくつかの説がありますが、いずれにせよ、6~18歳も信長より年長です。18歳年上だとすると、本能寺の変を起こした時点の光秀は60代。残っている肖像画は若く見えますが、実際の光秀はかなりの高齢だったはずです。
信長の家臣になった光秀は、どのような能力を評価されたのか。一つは語学、通訳的なものだった、と私は考えます。信長はテレビドラマや映画では標準語ですが、実際には尾張出身で「みゃあみゃあ」言っていたことでしょう。信長がのこのこ上洛してきても、足利義昭を始め、京都の朝廷や幕臣たちは何を言っているのか分かりません。
しかし光秀は、両方の言葉が分かった。美濃にいたならば、尾張と近いのでそれなりに言葉は理解できたことでしょう。このため将軍の近くにいた一方で、信長の側近としても仕えることになりました。詳細は拙著『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』に譲りますが、光秀は武家と宮中の礼法にも詳しいような振る舞いをするなどして、信長に信頼されるようになったと思います。
その後、光秀は「行政官」として信長に任せられた仕事をそつなくこなしました。それだけではありません。信長が朝倉義景を攻めた時の「金ヶ崎の退き口」で殿軍(しんがり)を務めたのは秀吉と言われますが、光秀も一緒に戦いました。
「これは使える男だ」と考えた信長は、光秀を丹波攻めの司令官に任命。光秀は苦労しながらも丹波攻略を成功させます。行政官としても、合戦をやらせてもうまい。オールマイティーの才能で、何でもできる。抜群の能力を示したので、信長は畿内を全部任せられると考えたように思います。
当時の軍事パレードである馬揃(ぞろえ)。信長が天正9年(1581年)に京都で行った大規模な観兵式典「京都御馬揃」を準備した総指揮官も光秀でした。日本にはナンバーツーという言葉はありませんが、光秀は織田家において、その地位にあった人物といえるでしょう。
激務が続いてノイローゼ気味だった?
ここまで高く評価され、厚遇されているなら、主君を裏切る理由が見つかりません。何が光秀を本能寺の変へと駆り立てたのでしょうか。
加来:本能寺のちょうど1年前に光秀が書いた書状では「私は瓦礫(がれき)の中から信長様に拾ってもらい、重く用いてもらった。だからお前たちも頑張れ」と部下たちを激励しています。当時は謀叛する気がなかったようにすら思えます。
しかし光秀は1年後に本能寺の変を起こしました。当時は光秀の妻である熙子がすでに亡くなっています。NHKの大河ドラマでは、光秀に側室がいないことになっているように、二人の夫婦仲は良かったと伝えられています。
熙子は“糟糠(そうこう)の妻”で、光秀と何でも語り合える仲でしたが、天正4年(1576年)11月に死んでいました。光秀は真面目な性格ですが、織田家の中では新参で友達がいない。そうなると誰と語り合うこともなく、内にこもるようになりがちとなります。
信長と光秀はもともと真逆なタイプです。直感的な信長と緻密な光秀は、性格がかなり違っていました。もちろん光秀は信長の天下布武に貢献して、大出世を遂げますが、「これでいいのかな」と思うところは多々あったかと思います。
私は光秀謀叛の一番の原因は、疲れだったと思っています。信長よりも、どうみても6歳以上年上ですが、激務につぐ激務が続いていました。信長はできる人材にますます仕事を与えるタイプで、光秀を心身ともに追い込んだのかもしれません。
光秀は丹波攻略を任せられただけでなく、同時期に本願寺攻めにも加わっています。丹波は山が多くて攻めにくい土地で、土豪たちも手ごわく、配下の武将の裏切りにも合って、戦いは必ずしも順調ではありませんでした。苦労が多かった光秀は、ノイローゼ気味だったのでしょうか。
加来:本能寺の変の前に、光秀がおみくじを引いて、幾度引いても凶が出た、というエピソードは有名です。疲れ切って、ノイローゼ気味となっていたのかもしれません。最後は自分で自分を追い詰めたようにも思えます。
「次に自分がどうなるのだろう」という不安は、当然あったことでしょう。30年近く織田家を支えてきた最高幹部の一人だった佐久間信盛が、信長から折檻状をもらって罷免されています。同じく織田家の重臣として活躍してきた林秀貞や、信長の命を受けて各地を転戦してきた安藤守就も、突如追放された事件もありました。
このまま頑張り続けても「やがて使い捨てにされるのではないか」と光秀が考えるようになっても、おかしくありません。信長は中国地方攻めの後に、九州攻めを考えていました。さらに朝鮮半島に渡り、明国(当時の中国の王朝)を征服することも視野に入れていたとの説もあります。
中国地方平定後に九州攻めが始まれば、光秀はその方面軍司令官になる可能性が高かった。光秀は、天正3年(1575年)に現在の宮崎県にあたる「日向守」の肩書を朝廷から与えられていました。拝領した姓「惟任」も、九州名門のものでした。
疲れた頭で考えても、光秀には相談相手がいない。何でも話せた妻はもう死んでいます。そんな中で、信長から任せられた中国地方攻めのための大軍が、光秀の手中にありました。光秀は心中、自暴自棄になっていたのかもしれません。
妻が生きていたら「本能寺の変」はなかった?
突然、光秀は本能寺で信長を討つことを決めます。相談を受けた家臣たちは、みんな反対しました。「勝てない」と。信長を殺しても、各地に派遣されている方面軍が全部残っているので、絶対つぶされる。主君を殺されて、他の方面軍司令官が光秀と組むことは考えられない。
思いとどまる可能性もあったはずですが、光秀の娘婿の明智左馬之助(秀満)がこう言いました。謀叛の話を重臣たちにしてしまった以上、「もうどうしようもない。やるしかない」。そこで光秀は、突っ込んだのだと思います。当時、妻の熙子が生きていたら、家臣たちに相談する前に話し合って、光秀を思いとどまらせていたことでしょう。いえ、その前に引退することを勧めたと思います。
逆戻りできないところまで、光秀は心身ともに追い込まれてしまった。ビジネスパーソンなら、多すぎる仕事に追い詰められた状況だと考えてください。
光秀は、感情をあらわにしないことを誇りに思うタイプ。織田家臣の中で一番のインテリといえるでしょう。だからこそ、信長に対する批判も出てくる。それでストレスがたまっていったのではないでしょうか。天正10年(1582年)に開催された武田征伐の戦勝祝賀会で、光秀が信長に殴りつけられた事件もありました。
『川角(かわすみ)太閤記』などにも書かれているように、「これで我々も努力してきたかいがあった」と光秀が言ったところ、激怒した信長から、これでもかと殴りつけられます。信長に言わせれば、「やったのは俺だ。俺の指図でお前たちは戦った。お前に何が分かるんだ」といった感じでしょうか。しかし光秀には、自らの努力への自負があったはずです。この事件から、本能寺の変まではわずか3カ月です。
武田勝頼を滅ぼした際、徳川家康は信長の嫡男である織田信忠に、花を持たせるためにわざわざ自軍を遅れさせています。しかし光秀は信長に忖度(そんたく)せずに、自分で自分を追い詰めたように思います。
繰り返しになりますが、本能寺の変を起こした理由は、激務による疲れだと私は思います。光秀はそれ以前に大病して伏せっていたこともあります。それでも、なぜ働き続けたのか。光秀は責任感もあり、頑張ろうとする性格で、これがよくなかった。ビジネスパーソンでいえば、頑張りすぎて、過労死しやすいタイプなだったのでしょう。
ドラマは史実と違う
本能寺の変には謎が多いのですが、光秀が周到に準備した計画的なものではなかった、と見ていいのでしょうか。
加来:光秀は、信長の首を取った後のことは、事前にあまり考えていませんでした。まず信長をこの世から抹殺して、初めて畿内の武将を味方につけ、上杉景勝や毛利輝元などの有力武将に少しずつ働きかけたように思います。
それでも光秀は、基本を間違えています。光秀は城持ちの武将ですが、どう考えても大名級。一方の信長は天下人です。一国の主と日本全体を見ている人は違う。当時は信長が主君で、秀吉や柴田は光秀と同列です。家臣は信長にはなれないのです。その当たり前のことが、理解ができていないのが、そもそもおかしいと思います。
信長を討ちとっただけでは、天下人にはなりえません。本能寺の変後に、光秀は自分の娘を嫁がせていた細川忠興の父親である、越前以来の盟友・細川藤孝に対して「あなたの息子(忠興)のために信長を討った」などと言って、協力を求めていますが、応じてはもらえませんでした。前もって計画していたならば、親戚関係にあった細川家こそを、あらかじめ味方につけておくのが、自然でしょう。
実際には11日間ですが、「明智の3日天下」と呼ばれるほど短命に終わったのは、準備が不十分だったから、事前計画がなかったからだと思います。本能寺の変には事前工作の痕跡が見られません。毛利氏に連絡した形跡もない。毛利氏と密約があったなら、秀吉の中国大返しも実現しなかったはずです。
光秀が本能寺の変後に安土を攻めた際、進軍路となる瀬田の唐橋(大津市)を、織田家の山岡景隆に焼かれた際に、3日間ぼんやりしていました。精神的に半分、病気だったという説も否定できません。
「天下人を討ちとっても、なり代われない」という話は企業社会にも通ずるところがあります。オーナーから雇われた社員は、たとえ社長になっても、本当のトップにはなり代われない。どうしてもかつぐ人が必要になります(編集部注:のちに秀吉は、信長の孫である三法師(織田秀信)をかつぎ、織田家の家督を継ぐことを支援した)。
ドラマでは光秀は乱世を良くしようする正義感の強い人物のように描かれています。
加来:ドラマは史実とは違います。光秀は血も涙もない実務型の官僚だったといえるでしょう。比叡山焼き討ちの時、光秀が「焼いてはいけません」と信長に言って蹴られたという話がありましたが、それはうそです。先に述べましたが、光秀は上司に言われたことをきっちりやるタイプです。自分がトップに立つのではなく、下にいれば活躍できる人材だったといえるでしょう。
・明智光秀は、なぜ “絶好のチャンス” を生かし切れなかったのか。
・夢ではなかった黒田官兵衛の “天下取り” が消えてしまった一言。
・のちの関ヶ原の戦いに生かした、徳川家康の失敗とは?
・山陰の太守、尼子と、名門甲斐武田の家が続かなかった共通点…
――歴史上の英雄たちも失敗しています。
歴史家の加来耕三氏が、独自視点の軽快かつ濃密な歴史物語で25人の英雄たちの “知られざる失敗の原因” を明らかにし、現代に通じる教訓を浮かび上がらせました。
見逃しがちな落とし穴、絶対に失ってはならない大切なものを見極める技、避けられない危機を最小限に食い止める対処法…失敗に学べば、「成功」「逆転」「復活」の法則が見えてきます。
この記事はシリーズ「Books」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?