証券会社の営業マンを、婿養子にスカウト

渡辺:船橋屋の創業者から3代目までは、創業家に生まれた、いわゆる「家付き」の跡取りでしたが、4代目と6、7代目は養子。5代目は実子でしたが、早くに病死しました。8代目の私が、久しぶりの家付きの後継者です。

星野:なぜ養子が多くなったのですか?

渡辺:昔は長男が後を継ぐのが普通だったところ、娘ばかりが生まれたり、あるいは、長男がいても継がせることができなかったりといった事情です。

 私の祖父の6代目には、跡取りとなるべき長男がいました。もう亡くなりましたが、私の伯父です。伯父は決して悪い人ではなかったのですが、いろいろとトラブルがあり、祖父は「跡取りの器ではない」と判断して、私の父を婿養子にとり、7代目にしました。

星野:なぜ、お父様に白羽の矢が?

渡辺:父はもともと証券会社に勤めていて、新規開拓の飛び込み営業で船橋屋に来ました。最初は祖父に門前払いを食らったそうですか、通い続けるうちに祖父から気に入られ、「うちの娘と結婚してはどうだ?」とスカウトされたそうです。

星野:お父様のどこに着眼したのか、ぜひ、お祖父様に尋ねてみたいところです。

渡辺:残念ながら、もう亡くなっているものですから。

星野:渡辺さんは、いつから後を継ぐことを意識されるようになったのですか。

銀行で働き、老舗の経営に興味を持つ

渡辺:就職してからです。祖父は、息子の教育に失敗したという思いから、孫の私を、本店がある東京から、遠く離れた土地で育てさせました。本店の近くにいるとチヤホヤされるのでよくない、と。だから私は、家業をあまり身近に感じませんでした。

 私には「経営者になりたい」という気持ちが昔からあって、大学卒業後は三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職しました。ただ、後を継ぐつもりはありませんでした。老舗の経営というと、守旧的な印象が強くて、興味が持てなかったのです。

 そんなイメージが変わったのは、銀行で働くなかで、です。銀行に入ったのは1986年で、バブルの始まりのころでしたが、バブルがはじけた後に、東京・銀座の支店で、銀座6、7、8丁目の商店街を担当しました。中小規模のファミリービジネスが多く、銀行員にとって難易度の高いエリアです。この商店街を担当するうち、老舗の経営に対する見方が変わりました。同じことをずっとやっているのでは沈みますが、本業からあまりにも離れた奇抜なことをやっても沈みます。本業の軸を理解し、その軸を広げるような事業をしている経営者が強い。加えて、組織作りが必須であると。自分なりに、いい経営と悪い経営の線引きが見えてきて……。

星野:自分のなかで、「家業を継ぐ」ことが正当化されていった?

渡辺:そうです。

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