また、香港の若者が大陸で仕事を探すのは容易ではありません。韓国、台湾と比べても難しい。逆に、大陸の若者は大勢香港に来て、香港で教育を受けて、大学を卒業してからそのまま香港で働く人が多い。年間1万人ぐらいいます。大陸から海外に出て、米国や英国で教育を受けてから香港で働くという人もいます。投資銀行などの金融機関にはそういう人たちがたくさんいます。だから、香港の若者は、大学に入るのも、卒業してから希望の仕事に就くのもどんどん難しくなっています。

 香港経済は中国経済と強い結びつきのある財閥がコントロールしています。香港の50%以上の土地が「ビッグ4」と呼ばれる財閥の影響下にあるともいわれる。これらの資本家は、政府に対して直接的に間接的に影響を及ぼしています。だから政府は社会福祉には投資しようとはしません。そして、香港の若者たちはこれらの政策の偏りを是正するための民主主義という手段も持っていないのです。

 物価が高い。給料は安い。就職も難しい。家を買えない。財閥だけが豊かになり、しかし福祉は充実せず、その政策決定に関与もできない。こういう環境の中で、香港の若者たちは絶望していっているということでしょう。

記者注:

 1997年7月に英国から返還された直後、90年代後半から2000年代前半の香港経済は、アジア通貨危機(返還の同年同月にタイから始まり、翌年にはアジア全域に及んだ)の余波とSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行(2003年に流行、香港では299人が死亡)によって深甚な影響を受けていた。1998年にGDP(域内総生産)は-5.5%とマイナス成長にまで落ち込んでいる。

 この香港の苦境を救ったのが、2003年に中港間で締結され、2004年に施行された事実上のFTA(自由貿易協定)である「経済緊密化協定(CEPA)」だ。旺盛に成長する中国経済との接続の垣根を下げることで、香港もその恩恵にあずかった。しかもCEPAは、香港製品の中国本土輸出に関税を課さない、香港企業の中国本土市場への参入障壁を下げるなど、香港に有利、中国本土に不利な「不平等協定」になっている。加えて同年、中国本土の人々の香港への個人旅行も解禁されている。これにより本土観光客という「購買力」を香港経済は手にすることができた。いずれも、中国政府による香港経済救済策だった。

 CEPA締結後、2004年に香港のGDPは8.6%という高成長を遂げ、以降もしばらくその効果が持続した。また、2003年に7.9%にまで上がっていた失業率は、2004年に6.8%、2005年に5.6%、2006年に4.8%と下がり続け、2011年以降は2.8%~3.4%の水準に落ち着いている。「カンフル剤」は劇的に効いたと言っていい。

 だが、この急激な資金流入と経済の一体化による恩恵は香港社会に深刻なひずみをもたらした。先に説明した不動産価格の急上昇はその典型だ。失業率こそ低いが実質的な職業選択の幅は狭まっており、香港の若者が「勝ち組」に入ることが難しいのは周の言う通りだろう。グロスとしての経済規模は大きくなったがトリクルダウンが起こったとは言えず、若者たちが抜け出せない貧困に沈む一方、この中国特需でますます財閥が力を付けて経済格差が広がってしまった。

 なお、周の言う「ビッグ4」は4大会計事務所ではなく香港の4大財閥を指す。すなわち、新鴻基地産、恒基兆業地産、新世界発展、長江和記実業だ。

若者たちの絶望を背景に、逃亡犯条例改正を求めて始まった今回の運動は徐々に変質していきますね。

(写真/的野弘路)
(写真/的野弘路)

 今回の運動は様々な名で呼ばれています。反送中(中国移送反対)運動、逃亡犯条例改正運動など。ですが逃亡犯条例改正はもはやきっかけにすぎず、運動の本質が変わってきているので、私自身は「自由の夏運動」と呼んでいます。

 Lさんが亡くなった翌日、6月16日に200万人を超える規模のデモが発生しました。私もそこに参加していましたが、このデモでは「5大要求」の1つに「林鄭月娥行政長官の辞任」を掲げていました。しかし7月1日の立法会突入事件を機に、これが明確に「普通選挙の実現」に変わりました。

 200万人デモ以降、運動の本質が徐々に変わっていったのです。6月27日にG20が開催され、フリーダム香港という団体がデモを主催しました。彼らはすでにこの時点で、逃亡犯条例の改正ではなく、「Democracy Now!」というスローガンを掲げて、民主主義や自由の要求、体制の改革、社会の改革を求めました。