誰も死者の名を知らない。死者が出たかどうかも分からない。だが、彼ら彼女らは、無名のまま無念の死を遂げた「消えた3人」を悼んでいる。弔う相手の名も知らない追悼の儀式に訪れる人は引きも切らず、私がその様子をじっと眺めていたおよそ30分間、休むことなく続いていた。
真相はどうなのか。太子駅の「消えた3人」問題を追及している議員・毛孟静が取材に応じたが、明確な回答は得られなかった。「大勢のけが人で混乱したと消防は言うが、大勢と言っても100人も200人もいたわけではない。なぜ間違ったのかと、今も消防と交渉していて正しい情報を出せと言っているが出てこない。政府への不信もあるので、これではますます信用されなくなっていく」

警察の行き過ぎた暴力について取材を続けていると、根も葉もない噂とは言えないような気分になってくる。一方で、狭い香港社会で本当に人間が3人消えたら、さしもの警察もその死を隠蔽し続けることはできないのではないか、とも思う。太子の「消えた3人」が死亡しているのか、それとも単なる消防の記録の誤りなのか、残念ながら私の取材能力ではその真相を明らかにすることはできない。
ただ、私がその祭壇を前に確かに感じたのは、そこに立ち込める反論不能な「死の物語」の濃度だった。


ここまで書いた今も、まだ書きにくいと苦しんでいる。私はデモ隊が死者を物語として利用し、消費したと書きたいのではない。また、警察への圧力や世論喚起のために、信じてもいない「3人の死者」を悼む演技をしていると書きたいわけでもない。
書きたいのは、今回の香港デモの中に持ち込まれた「死」の重さと、その引力の強さだ。デモ隊は黄色いレインコートを掲げて歩き、死の現場に花を手向ける。何人もの若者がその引力に引き寄せられるように命を絶つ。今も多くの人々が名も知らない「消えた3人」を弔ってひざまずき、線香をささげている。
現場を歩いていると、「死」の翳(かげ)が生む救いようのない暗さが私の心を重くした。香港や台湾では、盆などに路上で紙銭を火にくべるところをよく見る。日本社会と比べて死者との距離は近い。だから日本人が見るほど暗いものではない、と説明する香港人もいる。「殺人は命で償え」などの激烈な落書きがあるのも、広東語はすぐれて口語的で、いわゆる悪口のスラングが多いところに説明を求める人もいる。だが、この重さは、私が5年前に雨傘革命を取材していたときには感じなかったものだ。
それは、この5年間で、香港社会が置かれている状況が、「死」の物語とつり合うとまでは言わないまでも受け入れられるほどには深刻なものになりつつあることを示している。黄色いレインコートの男性の死は、その物語が確認され、共有されるきっかけになったにすぎない。
香港人はなぜそこまで追い詰められたのか。自殺したといわれる人たちのリストを見ると10代から20代が多い。香港の若者は、「死」の物語に魅かれるまでに一体何に疲弊し、絶望するのか。それを知るためのヒントをもらうために、9月21日、私は香港・沙田(シャーティン)にある香港中文大学を訪れた。
次回に続く。(敬称略)

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