黄色いレインコートの男性の死

 6月15日の香港は、蒸し暑いうす曇りだった。

 この日、香港の行政長官・林鄭月娥が午後3時から会見を開き、逃亡犯条例改正について「延期する」と発表した。ただし林鄭は「撤回」の宣言は拒んだ。デモが政府から勝ち取った最初の譲歩であり戦果だったが、完全な要求貫徹とは言えなかった。

 この会見開始から1時間半後、午後4時半すぎから、1人の男性が香港の中心街にあるショッピングモールの屋上に立った。場所は伏せたい。5階建て以上の高さがある建物で、改修中なのか、足場が組まれて外壁は布で覆われていた。雨は降っていなかったが、男性は黄色いレインコートをまとっていた。

 たまたまその姿を、現地で取材に当たっていた的野弘路が望遠カメラで捉えていた。

撮影したのは18時半ごろ。足場の上で説得を受けている(写真/的野弘路)
撮影したのは18時半ごろ。足場の上で説得を受けている(写真/的野弘路)

 男性は横断幕やレインコートの背に「逃亡犯条例を完全撤回せよ。われわれは暴徒ではない。学生と負傷者を解放せよ。林鄭は辞任せよ」などのメッセージや警察への批判などを掲げていた。

 警察は男性が立つ建物の前の道路を一部閉鎖し、消防がクッションなどを準備して転落に備えた。やがて警察の交渉専門家が到着して声をかけたが、男性は対話を拒んだ。立法会(日本で国会に相当)議員の鄺俊宇もニュースで知って現場に駆けつけ、声をからして呼びかけたが応じなかった。周囲で見守る人たちが聖歌を歌い始める局面もあった。

 午後9時すぎ、男性は落下した。

 消防隊員たちが止めようと慌てて男性の上着をつかんだが、彼らの手に残ったのはその上着だけだった。男性はクッションではなく路面に叩きつけられた。消防隊員が駆け寄って心臓マッサージを施すのを眺めながら、鄺はその場で泣き崩れた。

 男性は救急車で律敦治医院に運び込まれたが、助からなかった。自死を示すメモが発見されたため、警察はこの事件を自殺として記録した。

 9月に取材に応じた鄺は私に向かってこう言った。「議員としてできることは1つだけです。現場に行って、共に催涙弾とか食らって。若者とともに歩いていくということです」。その言葉の響きには、若者に寄り添う温かさとともに、香港の立法制度下で議員に力がないことに対する諦念と憤りも感じた。

 鄺はその日、救えなかった生命を前におのれの無力を呪って嗚咽(おえつ)した。

立法会の議員個室で取材を受ける鄺俊宇(写真/的野弘路)
立法会の議員個室で取材を受ける鄺俊宇(写真/的野弘路)

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