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 これから書こうとしていることは、書きづらい。が、書かなければならない。

 内閣府経済社会総合研究所の上田路子は2015年2月に「著名人の自殺に関する報道が自殺者数に与える影響:警察庁の自殺統計を用いた分析」という論文を発表している。 その「まとめ」の一部を引く。

本研究は警察庁の自殺統計原票に基づく 2009年から2013年の日別の自殺者数データを用い、全国紙に訃報が載るような著名人の自殺が報じられた後に自殺者数が増加するかどうかを検証した。全体的な結果としては…(引用中略)…自殺報道の後10日間に自殺者数が平均で5パーセント弱増加するという結果を得た。

 自殺が報道されると、自殺者が増える――。主人公が自殺することを描くゲーテの著作『若きウェルテルの悩み』が刊行されたのちに自殺者が増えたことから、この現象は「ウェルテル効果」と呼ばれる。かつて日本でも、藤村操の「巌頭之感」で知られる華厳の滝や三原山などでこの現象がもたらしたであろう悲劇が相次いだ。

 私はこれから、ある香港人男性の自死について書く。

 その前段として、あえて冒頭にこのウェルテル効果について書いた。1つには、読者の皆さんへのお断りのために。

 香港デモが大規模化、長期化したことの経緯を書く上でその男性の死は避けて通れない。WHO(世界保健機関)はウェルテル効果を防止するためのメディア向けの手引きを公開しており、厚生労働省はその日本語訳をウェブサイトに掲載している。私もこれを常に念頭に置きながら書いていきたいと思っているが、沿えない部分もありそうだ。ただ、この日経ビジネス電子版は、日本語で書かれた、主として日本人向けの媒体であり、同じ社会背景を共有しない香港での自殺について書くことが、すなわち日本でウェルテル効果を生むものとは考えない。もちろん自殺を扱うこと自体、細心の注意を払うべきであることを自分に戒めたいが、この先をお読みになる読者の皆さんにはあらかじめご了承いただきたい。

 なお、厚生労働省は自殺防止のための相談窓口を開設している団体のSNS相談リンクをウェブサイトに掲載している。

 もう1つには、香港でこの数カ月以内に起きたことが、このウェルテル効果と極めて密接に関わっていると考えるからだ。

 文春オンラインを舞台に、独自の視点と地に足のついた現地取材による優れた記事を次々に発表しているノンフィクション作家の安田峰俊もこの件について「香港大規模デモで「後追い自殺が続発」という後味の悪い話」の中で触れている。私がこれから書く内容と一部重なるので、先行する論考に敬意を示すために紹介しておきたい。