路傍の店舗の前に「守護孩子」(子供を守る、という意味)と名乗るグループの一員の男性が座り込んでいた。聞けば、警官の催涙スプレーの直撃を受けたらしい。同団体は、デモ隊と警官との間に立って衝突を身を挺して防ぐべく高齢者や主婦、ソーシャルワーカーなどが組織したボランティアのグループだ。高齢と思しき男性は、ぺットボトルの水で目や鼻、顔の肌などを洗い流していたが、記者の問いかけに視線を合わそうともしなかった。ショックを受けていたのかもしれない。「救護班」と書かれたベストを着たボランティアの若者たちが水を渡し、救急車を呼ぶかどうかを尋ねていた。

逮捕や拘束までいかずとも、デモ参加者の何人かを警官が取り囲み、所持品や身分証明書を改める場面も何度か目にした。多くの場合、警察はビルとビルの間の狭い路地にまず連れ込み、路地の入り口を警官隊で封鎖してから取り調べを始める。仲間のデモ参加者による奪還や報道のカメラを警戒しているのだろう。

破壊活動などの罪を犯したのでもない、ただそこで声を上げていたというだけの無抵抗な若者たちが、白々と強烈な照明を当てられて、背後から押さえつけられ、壁に向かって両手を挙げさせられている。警官は荒々しく怒声を浴びせ、乱暴に体をまさぐる。しかもそれを、警官隊の隊列の隙間から、周囲の「PRESS」と描かれたベストを着た現地記者たちがさほど驚く様子もなく撮影している。これがもう珍しくもない光景なのだ。私は声にならないうめきをヘルメットの下であげていた。
驚きゆえではない。胸にこみあげるのは悲しみだった。
香港各所で散発的に発生するデモに対して、警察官の数は十分ではない。4カ月に及ぶ連夜の動員で、彼らの疲労はピークに達しているのだろう。だから、という接続詞を使って免罪しようとは思わない。今の香港警察に明らかに行き過ぎた暴力や市民の不信を呼ぶ情報開示の不透明があるのは間違いない。ただ、疲労の色が濃く、時折、自制を失い、物狂おしい衝動に駆られているような警察官の姿を見ると、命じられるままに街に立って罵声を浴びる彼らに「黒警(ブラックな警察を意味する広東語)」とレッテルを貼って批判することだけで済ませることはできないという思いに駆られる。覆面の警官に中国本土の武装警官や軍人が紛れ込んでいると信じる香港人もいる。その当否は私には分からない。ただ、間違いなく、すべてでないとしても大半の警官は同じ香港人の家族や友人を持った香港人のはずだ。わずか人口700万人ほどの小さな地域の中で、香港人同士が、白いシャツと警察の制服を着て相対し、罵りあっている。
本当に憎むべきは、私のかつて住んだ街にこの対立や断絶をもたらした「構造」そのものなのだろう。


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