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 なぜ香港ではデモが続いているのか。

 6月に「逃亡犯条例」の改正に反対する大規模なデモが発生し、香港政府は同15日に条例改正の「延期」を発表。「延期では復活する」とデモは収まらず、9月4日に今度は条例改正の「撤回」を決めた。だが、それでもなおデモは続いている。要求は満たされたはずなのに、なぜ続くのか。

 もはやデモ参加者たちの要求は逃亡犯条例改正の撤回ではないからだ。前回にも書いたが、デモ参加者たちは「普通選挙の実現」を含む5つの要求を掲げ、「1つも欠かせない」とシュプレヒコールを上げている。

 6月12日に書いた記事「香港デモは「最後の戦い」、2014年雨傘革命との違い」の中で、私は以下のように書いた。

 香港は、返還時の取り決めによって高度な自治が認められていると言われる。だが、政府の代表が民意によって選ばれたことは英国統治時代から含めて1度もない。「法治主義」や「資本主義」はあっても「民主主義」はなかったのだ。(中略)
 (引用注:民主主義という)「いまないものを求めた」のが雨傘革命だった。これに対して今回のデモは「いまあるものが失われようとしていることを食い止める」という闘争だ。(中略)
 「ないもの」に手を伸ばそうとした雨傘革命と、「あるもの」を失うまいとする今回のデモ。後者は、勝っても新たに得るものはなく、負ければ引き返せない一線を越える。前者と比べて多くの世代や企業が声を上げたところに、香港社会の必死さが浮かぶ。


 条例改正の撤回を勝ち取ってなお、5つの要求を求めて続くデモを見て、「あるもの」を失うまいとする闘争から「ないもの」に手を伸ばそうという闘争に姿を変えたように見ている読者も多いだろう。だが、そうではない。依然として香港デモは、理想主義の中で戦っているのではなく、今「あるもの」を失うまいという悲壮感の中にある。

 それを実感してもらうために、前回に続いて、ある夜のデモの姿をお伝えする。9月21日夜8時頃、香港郊外・元朗(ユンロン)駅直結のショッピングモールには“革命歌”が響いている――。

7月21日「白シャツ襲撃事件」の記憶

 手を胸に当て、目をつぶって歌う若者たちの傍らで、私はシュプレヒコールを上げる群集から若者数人が抜けていくのに気づいてその後を追った。

 彼ら彼女らが向かった先は駅の出入り口だった。