20年近くトップに君臨した元会長のカルロス・ゴーン氏と決別し、筆頭株主の仏ルノーからの支配も受けない「自立」経営を目指す日産自動車。同社は30年前の1980年代後半にも、主体性に乏しい「依存型」の社風からの脱却を試みたことがある。その時、若手社員らが開発を手がけて生まれた車が高級車「シーマ」だ。ハイソカーブームをつくったシーマは爆発的にヒットしたが、皮肉なことに、その後の経営停滞を招く要因ともなった。

バブル経済真っただ中の1988年に発売された「シーマ」
バブル経済真っただ中の1988年に発売された「シーマ」

 1985年、社長に就任した久米豊氏は日産の社風改革に意欲を示した。久米氏の前任社長は「石原天皇」と呼ばれた石原俊氏。強力なリーダーシップで経営の障害となっていた労働組合トップの塩路一郎氏を失脚させ、海外への積極投資を牽引した。ただ、拡大路線の一方、国内販売はライバルのトヨタ自動車に差をつけられていった。

 大衆車サニーはトヨタのカローラに販売競争で負け、新型車の企画の段階から赤字計画を提出していた。当時、企画室の課長だった日産OBの川勝宣昭氏は「内向き志向で官僚的なところを変えないとトヨタに太刀打ちできないという雰囲気が醸成していった」と振り返る。

 久米氏から社風改革を託された川勝氏らはまず、生産現場のテコ入れに乗り出した。塩路氏の「票田」だった現場の発言力は大きく、それが日産車の高コスト体質を招いてトヨタ車に競り負ける要因となっていると判断したためだ。

 7工場のうち2つを「モデル工場」に設定、課長や係長といった敬称で呼ぶのをやめる「さん付け運動」から始めた。改革メニューも列挙し、トヨタを参考にした「カイゼン運動」もスタート。「必要のないヒエラルキーを打破することで生産性を高めようと考えた」(川勝氏)

イタリア貴族の邸宅に居候のワケ

 活動は開発部門にも広がった。ここで課題となったのはリスクを避ける気質からの脱却。若い人の斬新な企画がロートル役員の一言で潰される慣習を打ち破ろうと、少々リスキーでも可能性のある企画を吟味する「60点主義」を導入した。そんな中で挙がったプロジェクトが、3ナンバーベースの高級車の開発だった。

業績が苦しい時でも開発を続けた
業績が苦しい時でも開発を続けた

 当時の日産の高級車と言えば「セドリック」と「グロリア」。ハイヤー向けの「プレジデント」に匹敵するワイドボディの車の開発は70年代後半から議題にあがっていたが、企画が具体化するたびに、上層部からストップがかかっていた。

 ただ、この時は止まらなかった。トヨタが本格的な3ナンバー車開発を計画しているとの情報も後押しとなり、86年、本格的に「シーマ」の開発が始まる。86年度に営業赤字となるなど日産の業績は下り坂にあったが、久米氏は若手の熱心な提案に風土改革の兆しを見たのだ。

 シーマ開発の経緯であった面白い挿話を川勝氏が回想する。「いい時代」を思わせると同時に、日産がなんとか変わろうとしていたことを示す一幕だ。

 「それ以前と違って、シーマでは若手が開発の中心となった。ただ、想定する顧客である本物の富裕層の生活がわからない。そこで、イタリアの貴族の邸宅に開発チームが3カ月間居候した。リッチな人が何を求め、何を考えているかを知ろうとした」

 88年1月に発売されたシーマは初年度に36400台の販売を記録。500万円以上の最上位車種に注文が集まり、ライバルとみたトヨタの「ソアラ」などを存在感で圧倒した。その勢いを示した言葉が、88年の流行語大賞で銅賞となった「シーマ現象」だ。シーマはその後もバブル景気に乗り、4年で13万台近くを売り上げた。

豪華な内装も話題を集めた
豪華な内装も話題を集めた

 ただ、シーマの成功は日産の経営に良い効能をもたらしただけではなかった。取締役を務めた日産OBは「あれ(シーマ現象)で気を良くして、本格的な構造改革に着手することなく、90年代に入ってしまった」と悔やむ。そして、バブルが崩壊。日産は風土改革が根付かないまま、99年に仏ルノーに助けられるまで、奈落への坂道を転げ落ちていった。

日産自動車が仏ルノーと提携して20年。カルロス・ゴーン氏の逮捕・起訴は世界に衝撃を与えたが、ゴーン氏が日産に残したものは少なくない。日経ビジネス4月1日号の特集「日産の正体」では、そんなゴーン氏の功罪と、ゴーン氏の暴走を許した日産の体質について分析した。