全2574文字

 日産自動車は4月8日、元会長のカルロス・ゴーン氏の取締役解任を議案とする臨時株主総会を開く。役員報酬を過少記載した容疑などで被告の身となったゴーン氏。1999年に経営破綻の淵にあった日産に送り込まれ、再生に導いたカリスマ経営者の素顔は一体、どんなものだったのか。労働組合の中央執行委員長として、ゴーン氏と渡り合った高倉明・現自動車総連会長に話を聞いた。

高倉明(たかくら・あきら)氏
1958年生まれ。81年国際基督教大学教養学部を卒業し、日産自動車入社。89年に日産労連国際局長、90年自動車総連に出向し国際局部長。産業事業局局長、国際局局長などを経て2000年に日産に戻り、01年全日産労組中央執行委員長。08年日産労連会長、17年から自動車総連会長。連合副会長、金属労協議長も兼ねる。金属業界の国際労組組織、インダストリオール・グローバルユニオンの副会長も務める。60歳。                

ゴーン氏が日産に来る前と後とで、労使関係はどう変わりましたか。

高倉明・自動車総連会長(以下、高倉氏):日産労組の基本的な考え方は対立と協調のバランスで、徹底した話し合いで労使間協定をつくっていくことだ。これはゴーンさん以前とも変わっていない。ただ、ゴーンさんは徹底的に日産の労組を研究し、真摯に話を聞こうとした。事業環境が厳しい中、我々は2002年の春闘からベースアップを求めた。ベアは改革を乗り切るための意欲、活力につながるということをゴーンさんは理解していた。

 日産リバイバルプラン(NRP)はグループで2万1000人という人員削減を伴った。だが、自分の意に反してクビを切られた人は1人もいない。事業ごとの移転か自然減が中心で、新規採用もしていた。家族の都合など転出できないケースもあったので、完全閉鎖を決めていた村山工場の一部を残し、3年限定で約300人を雇用してもらった。

99年に来たゴーン氏を従業員は当初、どう受け止めましたか。

高倉氏:ルノーという会社名は知っているが、車は日本でほとんど売れていない。当時はフランスとの労働組合の連携もなく、未知の領域だった。報道でコストカッターが来ると聞き、社員は不安を覚えた。労組には、1995年の座間車両工場閉鎖のトラウマがあった。その時、経営側は「これが最後。日産は立ち直れる」と言ったので労組は協力したのに、こんな結果(破綻寸前)になった。ゴーンさんには「本当に日産はNRPで立ち直るのか」としつこく聞いた。ゴーンさんは「これをやらないと日産は潰れる。痛みは伴うが、俺を信じてほしい」と訴えた。それで私は「結果を出してください。そのためであれば協力する」と伝えた。