「団塊の世代」など時代を切り取る数多くのキーワードを生み出した作家の堺屋太一さんが2月8日、亡くなりました。83歳でした。堺屋さんは1960年に旧通商産業省(現経済産業省)に入省後、大阪万博や沖縄海洋博の企画などに関わりました。経済企画庁長官も務め、戦後経済のプランナーとして活躍しました。
日経ビジネスは戦後70年の特別企画として2014年12月29日号の特集「遺言 日本の未来へ」で、戦後のリーダーたちが次代に遺す言葉を集めました。その中で堺屋さんは“遺言”として、「官僚主導の日本を壊し、『楽しい日本』をつくろう」というメッセージを託してくれました。
インタビューで堺屋さんは戦後日本を振り返り、「敗戦で日本人のメンタリティーは、物量崇拝と経済効率礼賛に180度変わった」「欧米が文明を転換している間に、日本はひたすら規格大量生産を続け、それが一時の繁栄をもたらし、バブルとなって大崩壊した」と分析していました。
堺屋さんをしのび、当時の記事を再掲載します。堺屋さんは、「3度目の日本」を目指そうと私たちに語りかけています。
ご冥福をお祈りいたします。
(『民の文化で楽しい社会を、故・堺屋太一氏が願ったこと』もあわせてお読みください)

堺屋太一(さかいや・たいち)
通商産業省入省後、大阪万博や沖縄海洋博などを手掛けるほか、『団塊の世代』など時代を切り取る小説を数多く執筆。経済企画庁長官も務めた。下の色紙の言葉「稚夢鬼迫人戈佛心」(ちむきはく じんさいぶっしん)は、「子供のような夢を持ち、鬼の気迫で物事を進め、人の才能で器用にまとめ、最後は仏の心で不満ものみ込む」との意味。1935年7月生まれ。(写真:村田和聡、以下同)
私は戦時中、大阪偕行社小学校という、陸軍の将校クラブ「偕行社」の附属小学校に通っていました。当然、その学校は軍隊教育が売り物で、体罰を交えながら帝国不敗という信念を叩き込まれました。陸軍の退役少将だった校長は、「我が大和民族は極東尚武の民であり、帝国軍人は忠勇無双である。よって我が陸海軍は無敵、不敗」と生徒たちに教え込んでいました。「我が1個師団は、米英の3個師団に対抗できる」――。そういう訓示を朝礼のたびにしておりました。
私は昭和17年の4月に入学したものですから、毎日のように『軍艦マーチ』が鳴って、戦果とどろく臨時ニュースが入ってきていました。当然、日本が勝っている、と私たちは思っていました。
ところが、だんだんと戦場が日本に近づいてくる。入学した時には南太平洋のはるかかなた、ガダルカナルで戦っていたのが、やがてラバウルになり、ソロモン諸島になり。ひょっとしたら日本は負けているのではないかと、小学校2年生の時にはそんな感じを持つようになっていました。

やがて空襲警報が鳴るようになって、昭和20年の2月1日だったんですが、奈良県御所市に古い実家があったので、そこに疎開しようと考えている、と親父に連れられて校長先生に言いに行きました。そうしたら校長先生は、「おたくは8連隊の近所で帝国陸軍に守られているから大丈夫だ」と言うのです。それでも父は疎開させました。結局、6月1日の空襲で丸焼けになっちゃったんです。それでもしばらく焼けなかった間に、大八車で荷物を運べたのは有難かったと思います。
終戦は疎開先の奈良県御所市の旧宅で迎えました。
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