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東郷重興氏。日本債券信用銀行元頭取

巨大銀行が次々と倒れた1990年代、日本長期信用銀行に続いて日本債券信用銀行も破綻してしまう。最後の頭取となった東郷重興氏が、当時の出来事を赤裸々に語る。なぜ、大銀行はあえなく潰れたのか。そこには、金融淘汰という抗しがたい波が打ち寄せていた。

頭取として、日債銀の最期を見届けました。

東郷氏:大蔵省の役人が1998年12月12日に「日債銀を国有化します」と、官邸に報告に行った際「何で株価が200円近くあるのに国有化するんだ」と言われたそうです。当時、日債銀は株価も安定していたし資金繰りも問題ありませんでした。公的管理下に置かれた際も、手元余裕資金は1兆5000億円ありました。

 日債銀は長銀よりカネがあったんです。でも長銀が98年10月に資金繰りに行き詰まり、公的管理になった途端に「同じ長期信用銀行の日債銀も生きていてはならん」とレッテルを貼られてしまった。どうあがいても、この流れは変えられませんでした。

 そこで僕らは最後の意地を見せることにしました。1兆5000億円あって左うちわだから何も困っていないと、公的管理の申請を出さなかったのです。そうしたら大蔵省の内政審議室長の竹島一彦氏が「それじゃしょうがない。職権で通告書を出す」と。当時の小渕恵三首相の名で国有化の通告をするから、通告書を総理府まで取りに来いと連絡が来ました。強権発動だったわけです。

どういういきさつで日債銀に行くことになったのですか。

東郷氏:そもそも僕が日債銀に行くなんていうのは考えられもしなかったことなんですよ。大蔵省出身で、私の前の頭取だった窪田(弘)さんとの出会いが大きかったのではないでしょうか。

 僕は日本銀行で政策委員会室長を2年くらいやって、(日債銀に)転出の直前は国際局長でした。政策委員会室長だった頃、当時3カ月に1回、支店長会議がありました。2日目はいつもランチミーティングがあって、都銀12行、長信銀3行の頭取が大蔵省幹部とテーブルを囲むわけです。私のいた政策委員室というのは、要するに事務方ですから末席に座るわけですね。その時、いつも隣にいたのが窪田さんでした。日債銀は長信銀の中で一番小さい銀行でしたから、自然と隣になったのでしょうね。だから、窪田さんとは飯友達でした。

 どうやら日銀から誰かサポートが欲しいと、窪田さんが私を名指ししたようです。96年5月、連休明けのある日、当時、日銀副総裁だった福井俊彦さんの部屋に呼ばれて行くと「窪田さんがお前じゃなきゃ困ると言っている」と、日債銀への転出を告げられました。そして、とにかく誰にも言うな、言ったらこの人事は潰されるから日銀の中の人にも誰にも言うな、と。私はこの時、葬儀場支配人として出されるのだと覚悟しました。当時から、日債銀の経営難は有名になっていましたから。

 転出を告げられてから発表まで2週間あったのですが、とにかく誰にも言えない。でも国際局長が辞めるとなればそれなりに大きなパーティーもしなきゃいけないから、とにかく場所だけは押さえなければと「いい季節だからパーティーでもやろうよ」と周りに言って予約させたりしました。

窪田さんは日銀の支援を期待していたのではないですか。

東郷氏:いや、それはないですね。5月22日に退職辞令をもらって、日銀をあいさつ回りした際に「東郷君、悪いけど君の銀行を助けるつもりはまったくないから」と営業局長とか総務局長とか、皆に言われましたから。要するに日債銀というのは、大蔵省が救うためにやっている銀行なので、お前は窪田さんと仲良くなっちゃって誘われただけで、日本銀行としてはまったくそのつもりはないと念を押されたんですよ。

 窪田さんは僕の個人的な「何か」に期待してくれたのかもしれません。あいつは何か頼めば必ずやると思ったのでしょう。国際局長の時は、いろいろなことがありましたからね。

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