国松孝次氏。1937年生まれ。東京大学法学部卒業後、警察庁に入庁。大分・兵庫県警の本部長や警察庁刑事局長などを経て、94年に同庁長官。95年3月に自宅前で狙撃され、一時危篤に陥る。退官後の99〜2002年、特命全権大使としてスイスに駐在。現在はNPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」の会長として、ドクターヘリの普及活動に当たっている。
国松孝次氏。1937年生まれ。東京大学法学部卒業後、警察庁に入庁。大分・兵庫県警の本部長や警察庁刑事局長などを経て、94年に同庁長官。95年3月に自宅前で狙撃され、一時危篤に陥る。退官後の99〜2002年、特命全権大使としてスイスに駐在。現在はNPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」の会長として、ドクターヘリの普及活動に当たっている。

これまで、一連のオウム真理教の捜査に関して「反省をしなければいけない」と発信されてきました。具体的な反省点とは何なのでしょうか。

国松氏:捜査全般の進め方について、もう少しスピーディーにできなかったか、悔いが残っている。

 個々の捜査員は立派に仕事を果たしたと思う。容疑者はしっかり全員逮捕して、事件の全容はほぼ解明できた。マスコミから捜査批判を受けても、きっちりと説明をすることができる。(編集部注:国松氏が銃撃を受けた事件は、当初オウム真理教の関与が疑われたものの、2010年に時効が成立している)

 しかし、被害者のご遺族の方に批判を受ければ、謝罪する以外にない。高橋シズヱさん(地下鉄サリン事件被害者の会の代表世話人)にも「もう少し早く捜査が進んでいれば、主人はなくならなかったんじゃないでしょうか」と言われたことがある。声を荒らげるわけでもなく、悲しみのやり場がないようなお話の仕方で、頭を下げることしかできなかった。

もし、事件を防げたとすれば、何が分かれ目だったのでしょうか。

国松氏:都道府県警の管轄権が壁になった。1994年に長野県で発生した松本サリン事件を受け、山梨県の旧上九一色村の教団施設をサリンの製造拠点として目星をつけていた。しかし、長野県警、山梨県警、あるいは(坂本堤弁護士一家殺害事件を担当していた)神奈川県警でも、これだけ大規模なテロ集団に手をつけられる態勢はつくれない。やはり、警視庁を動かすしかないが、当初は東京都内でオウムの関連が疑われる事件は起きていなかった。警察法の専門家の意見はやはり「管轄権はない」だった。

 95年2月になって東京・目黒の公証人役場の事務長が逮捕監禁の末に死亡する事件が起きた。遂に警視庁による強制捜査が決まったが、その前に地下鉄サリン事件が起きてしまった。

では、何ができたのか、と考えると難しいですね。

国松氏:日本人は、私も含めてだが、想定外の事態に弱い。起こってから大慌てで動くから、対応が遅くなるし、下手すれば逆効果の手を打ってしまう。

 オウムも想像の空白、欠落をついてきた。当時、サリンは国内で使用事例がなく、規制もない。それでも、想定しておくべきだったのではないか、と言われれば、そうなんだろうと言わざるを得ない。

 オウム事件に教訓があるとすれば、「ありえないことはもうない」、ということ。麻原彰晃元死刑囚の誇大妄想を有名大学出の優秀な若者が信じ、サリンをつくっちゃう。それをあろうことか地下鉄でまく。フィクションとリアルの世界の境目がなくなってしまった。こんなことまで想定しなくていい、という甘い考えはもう通用しなくなったわけだ。

 警察庁を退官後、大使として赴任したスイスで、興味深いものを見た。スイスでは、日本で東日本大震災が起こるずっと前から、原子力発電所で全電源喪失を想定した訓練を繰り返していた。スイスにとっては、福島第一原子力発電所で起きたことは、想定外ではなかったわけだ。

 スイス人はとにかく心配性で、リスクを徹底的に洗い出して備える。核シェルターは全人口をカバーしているし、常日頃から、何かあると街中ですぐにサイレンが鳴る。

日経ビジネスの2月11日号特集「敗者の50年史」では、日経ビジネスが創刊以来50年に渡って追い続けた企業事件の中から、失敗の本質を突き止めている。