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 「団塊の世代」という言葉を世に送った作家、堺屋太一(本名・池口小太郎)氏が永眠についた。2月8日午後、多臓器不全のために東京都内の病院で死去。83歳だった。1970年大阪万博を提案、企画し、98~2000年までは経済企画庁長官も務めた。NHK大河ドラマの原作も手掛けた多才な人が最後まで唱えたのは「民の文化で『楽しい社会』を創ること」だった。

亡くなった堺屋太一さん(写真:共同通信)

 1935年、大阪市で弁護士の息子として生まれた。明智光秀の娘、細川ガラシャが洗礼を受けたとされる教会の真向かいに実家があった。文化に造詣が深い家庭で「歌舞伎や文楽が身近だった」。中学1年の時に訪れた大阪・天王寺の復興博覧会に魅せられ、会場の建築設計に関心を持った。

 ボクシング部に所属して「バンカラをやった」という高校時代を経て、東京大学建築学部に進学。東京タワーができると聞き、夏休みの課題で3本足タワーの設計をした。コンピューターがない時代で構造計算に苦心。ただ、目を悪くして建築家を諦め、3年次に経済学部に編入した。最後に設計したのは地元・大阪の小学校に建てる劇場だったという。

 大卒後は通産省に入省。住友銀行、近畿日本鉄道と迷ったというが、当時付き合っていたドイツ人女性に「迷うのは何が好きか分かっていないからだ。何が好きか考えられるところにいけばいい」と諭され、転職先が多いように思えた通産省に決めた。

 この女性、エリザベートさんは堺屋氏の小説にも出てくる。予備校に通っていた時、いつも途中で電車に乗ってくるエリザベートさん。「あるとき横の席が空いたので腰掛けて思い切って話しかけたらうまくいった。その後、5~6年付き合った。生涯で思い出に残る女性は母、妻、エリザベートさんの3人だった」

 万博の発想は通産省の上司の一言がきっかけ。お見合い話を持ち込まれ「やりたいことがある」と苦しい言い訳で断った。上司の「一生懸命するのはいいことだ。例えば、万国博覧会とか、な」という言葉に応えるため「万博とは何か」を調べに図書館に出向いた。そして、万博の日本開催を提案。70年の大阪万博の企画も担った。