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 太平洋戦争末期の沖縄戦で、地下に陸軍総司令部が置かれたために、米軍の猛攻にさらされて、焼け落ちてしまった首里城(那覇市)。1992年に美しくよみがえったが、2019年10月の火災で再び失われてしまった。

 首里城の歩んだ苦難の歴史や、奇跡の復活、そして今後の復元を考えるうえで、忘れてはならないのが、ある在野の沖縄研究者の功績だ。その人物の名は鎌倉芳太郎。美術教師として赴任した沖縄で当地の文化に魅了され、膨大な量の資料や写真を残した。彼の残した戦前の貴重な沖縄文化の記録がなければ、1992年の復元はかなわなかったとされる。

 「首里城を2度救った男」。鎌倉をこう呼ぶ人もいる。残した記録が92年の復元に大きく貢献したことに加え、琉球王国の崩壊で主を失い、荒れるがままだった首里城が、大正末期に取り壊されそうになった際に、取り壊し中止に一役買ったこともあるからだ。

 明治政府による琉球処分や、「鉄の暴風」と表現される沖縄戦の未曽有の戦禍。苦しい時代を経てもなお、現在に文化をつなぐことができたのは、彼の存在が大きい。鎌倉に関する著作『首里城への坂道──鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』があり、自身も琉球王府で高官を務めた家の生まれである与那原恵氏に、今の想いを聞いた。

(聞き手は奥平力)

首里城で火災のあった2019年10月31日に、那覇市にいらしたそうですね。

与那原恵氏(以下、与那原氏):取材のため那覇市内のホテルに滞在していたんです。夜が明けた頃に親戚から電話があって、妙な時間だなと思ったんですが、「首里城が燃えている」というだけで切れてしまった。あわててテレビをつけたら、あの光景です。首里城は復元以降、私の人生とずっと一緒にあると信じ込んでいたので、それが突然なくなってしまったというか。ぼうぜんとしました。

与那原 恵(よなはら・けい)
 1958年東京都生まれ。96年「諸君!」掲載のルポで、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞。2014年『首里城への坂道──鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で第2回河合隼雄学芸賞、第14回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。他の著書に、『美麗島まで』『サウス・トゥ・サウス』『まれびとたちの沖縄』『わたぶんぶん──わたしの「料理沖縄物語」』『帰る家もなく』などがある。
 19年11月10日発売の新著『赤星鉄馬 消えた富豪』では、日本初の学術団体「啓明会」を立ち上げ、鎌倉芳太郎のほか、柳田國男らそうそうたる学者の研究を支援した赤星鉄馬の生涯を描いている。(写真:竹井 俊晴)

 ゆいレール(沖縄都市モノレール)の儀保駅のホームから、森の中にそびえ立つ首里城の赤い壁を見るのが好きだったんですが、現場に向かう途上、いつもと同じ場所から見えたのは、焼け焦げて真っ黒になっている姿。胸がつぶれる思いでした。現場近くの焦げた臭いも忘れられません。本当に切なかった。

沖縄戦での消失から50年近くを経て復元されたものが、再び失われてしまいました。

与那原氏:県民の喪失感の大きさを知るにつけ、1992年の復元以来の27年間は大事な時間だったんだという思いを強くしています。沖縄の強い日差しにさらされて、年月とともに漆の赤い塗装が剥げていくのを修復する。そうした一つひとつの作業を県民が見守ることによって、首里城が自分たちのものになってきたところがあるんでしょう。

92年の首里城復元からの27年間は沖縄県民が自分たちの文化や伝統に自信を深めていく過程だったようにも思います。

与那原氏:そうですね。80年代後半から、沖縄文化を見直そう、ウチナンチュ文化を見直そうという動きが若者の間で盛り上がってきました。沖縄に関する話題なら何でも扱う出版社、ボーダーインク(那覇市)ができたり、りんけんバンドをはじめ、沖縄音楽がワールドミュージックの中で高く評価されたりと。それは、本土復帰から時間がたつ中で、自信を取り戻すということと、大和化していくことに対する危惧の両方の作用だと思います。

 首里城の形は明らかに日本本土の城とは違いますよね。中国と沖縄と日本の様式を巧みに取り入れた、敵から自分を守るための城ではなくて、誰かを迎え入れるための城です。火災の後に、日本中から多くの寄付が寄せられているのも、国のあり方に対する共感なのではないかという気がします。強いだけが国の生き方ではない。大きいだけが国の生き方ではないというね。