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澤田康幸(さわだ・やすゆき)
アジア開発銀行チーフエコノミスト兼経済調査・地域協力局長
開成高校を経て1990年慶応義塾大学経済学部卒業、92年大阪大学大学院経済学研究科修士課程修了、94年東京大学大学院総合文化研究科国際関係論専攻修士課程修了、96年米スタンフォード大学大学院食糧研究所修士課程修了、99年同経済学部博士課程修了(Ph.D.)。同年東京大学総合文化研究科国際社会科学専攻助教授、2002年同大学院経済学研究科助教授。2007年経済学研究科准教授、2012年同教授。17年、アジア開発銀行チーフエコノミストに就任。専門分野は開発経済学、フィールド研究、特に開発途上国の教育開発、貧困問題、政策評価の経済分析。(写真は陶山勉、以下同)

 2019年のノーベル経済学賞は、貧困緩和を目指すための研究で知られたアビジット・バナジー、エスター・デュフロ両米マサチューセッツ工科大学(MIT)教授と、マイケル・クレマー米ハーバード大学教授が選ばれた。経済学の中で「開発経済学」といわれる分野だが、3氏の研究が注目されるまでは長年、低迷していたという。開発経済学が専門で、現在はフィリピンに本部があるアジア開発銀行(ADB)のチーフエコノミスト兼経済調査・地域協力局長である澤田康幸氏に、経済学で貧困研究の質が高まり注目されるようになってきた背景や、優れた研究を育成するために必要な施策などについて聞いた。

本日は東南アジア風の服装ですね。

澤田康幸アジア開発銀行チーフエコノミスト(以下、澤田):これはインドネシアのバティックで、イワン・ティルタという著名なインドネシア人デザイナーのものです。例えばインドネシア人に「これイワン・ティルタだよ」と明かすと、「おーっ」と喜んでいただけるブランドなのです。

さて、澤田さんは開発経済学をメインとしながらも、自殺の経済学など幅広い研究活動で知られる研究者で、東京大学経済学部教授でした。現在はアジア開発銀行(ADB)で、アジア太平洋地域の経済問題に関するスポークスマンとして活躍するとともに、経済調査・地域協力局の局長として同局のマネジメントに従事しています。今年のノーベル経済学賞は本業の開発経済学が受賞対象でした。

澤田:2015年のアンガス・ディートン教授に続き、本当にうれしいニュースでしたね。ただこれは同業者が皆、指摘していることでもありますが、米マサチューセッツ工科大学(MIT)のアビジット・バナジーとエスター・デュフロ両教授、米ハーバード大学のマイケル・クレマー教授各氏がノーベル経済学賞を共同受賞したのは大変喜ばしいとはいえ、少々受賞するタイミングが早かったのではないかとも思っています。

貧困削減研究の「早すぎた受賞」

若すぎるということでしょうか? あるいは、受賞理由に挙げられていたRCT(ランダム化比較試験)は、医療分野ではかなり以前から活用されていますが、そうしたことも関係があるでしょうか。

澤田:貧困問題の分析への貢献も含め、ディートン教授が受賞したのが2015年、重なる部分が大きい行動経済学でリチャード・セイラー教授が受賞したのが2017年です。また、RCTそのものであれば、ジョセフ・ニューハウス米ハーバード大学教授が経済学にRCTを持ち込んだのが1970年初めです。ニューハウス教授は、米ランド研究所で、RCTで医療保険の実験(注:1971~86年に医療経済学者が米国6都市の5809人を対象に実施した大規模実験。保険の自己負担割合をランダムに設定して受診行動や健康状態を継続的に観察した実験)を実施しました。

 RCTはデータの因果関係と相関関係を切り分けるところが方法論として極めて重要です。日本でも最近「エビデンスに基づいた政策」がよく議論されますが、その基礎となる因果識別の手法については、80年代、90年代にはミクロ計量経済学や労働経済学の分野で相当の研究蓄積がありました。

 例えば、すでにノーベル賞を受賞した米シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授、米ハーバード大学のドナルド・ルービン名誉教授、MITのヨシュア・アングリスト教授、2019年3月に亡くなった米プリンストン大学のアラン・クルーガー教授、それから米カリフォルニア大学バークレー校のデービッド・カード教授、米スタンフォード大学のグイド・インベンス教授。日本でも東京大学の市村英彦教授。こういった研究者がこれまで重要な貢献をしてきました。

 カード教授とクルーガー教授は、米国における最低賃金の引き上げが雇用に与える影響について実証研究をしたことで知られています。また、フィールド実験ということなら、シカゴ大学のジョン・リスト教授、米カリフォルニア工科大学のコリン・キャメラー教授ら実験経済学の研究者、といった実績のある研究者たちがたくさんいる。そういった数多くの大物経済学者たちがひしめく中、ある意味彼らを「すっ飛ばし」て3人が受賞したので、「早すぎだ」という声が上がっているのですね。

ここのところ社会貢献投資とか、国連のSDGs(持続可能な開発目標)などが重要視されていますから、3人の研究がそういった世界のムードにフィットしたのでしょうか。

長期視点で投資してきたMIT

澤田:それもあるとは思います。しかし私は、RCTそのものより、彼らの真の貢献は別のところにあったと思っています。

 まず、バナジー、デュフロ両教授の所属するMITが戦略的に動いて、開発経済学を経済学の中でトップクラスの分野に引き上げる手助けをしたことが大きい。舞台となったのがMITのアブドゥル・ラティフ・ジャミール・ポバティー・アクション・ラボ(略称J-PAL)という実践的貧困研究のセンターです。

 J-PALは、2003年にバナジー、デュフロ両教授に、当時MITにいたセンディル・ムッライナタン教授という行動経済学者の3人が、共同で創設した研究機関です。このJ-PALの貢献は、大きく3つあります。バナジー教授らの革新的な研究を通じて、低迷していた開発経済学の分野をトップクラスの分野に引き上げたこと、若手の開発経済学者を引き入れ若くても新しい研究ができるプラットフォームを提供してきたこと、それから政策との連携を密に図ってきたことです。

 またJーPALは、当初から極めて巧みにメディアを活用してきました。私はこれを、いわゆるアウトリーチ活動の一環と理解しています。

 例えばトップクラスのメディア、英フィナンシャル・タイムズや英エコノミストに頻繁に登場していたのは言うまでもなく、男性向けライフスタイル雑誌の「GQ」などのような、もっと幅広いジャンルの雑誌にも登場していたのです。少しでも広くアウトリーチするための活動を、当初から戦略的にやってきたと思います。

開発経済学といえば途上国支援、貧困研究です。それがGQに登場、というのは確かに意外ですね。

澤田:またJ-PALは、若手研究者がのびのびと活躍できる場を提供している強みを存分に生かし、センター全体としてリサーチプログラムを巧みに設計し、強力に推し進めたのです。

 政策との連携でも実践的かつ戦略的です。J-PALはインドにもインドネシアのジャカルタにも事務所がありますし、フランス人であるデュフロ教授の研究についてはフランス政府の援助機関も大いにサポートしていました。私が所属するADBでも、過去にJ-PALと研究をしたことがあり、今年に入って共同研究計画についてちょうど議論してきたところでした。