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高橋是清が主張した参謀本部の廃止

総力戦をにらんで、憲法を改正しようという具体的な動きがあったのですか。

吉田:首相や蔵相を務めた高橋是清が1920年に参謀本部廃止論を唱えています。この軍事上の機関が内閣のコントロールから独立して、軍事、外交、経済の面で影響力を及ぼしている、とみなしていました。陸軍大臣や海軍大臣の統制に服していた参謀総長や軍令部長が、だんだんそれを逸脱するようになってきたのです。

 首相に在任中だった原敬も、「何分にも参謀本部は山県(有朋)の後援にて今に時勢を悟らず。元来先帝(明治天皇)の御時代とは全く異りたる今日なれば、統率権云々を振廻すは前途のため危険なり。(中略)参謀本部辺りの軍人はこの点を解せず、ややもすれば皇室を担ぎ出して政界に臨まんとす。誤れるの甚だしきものなり(下略)」(『原敬日記』)として参謀本部に批判的でした。

 ただし、憲法改正までは言っていません。明治憲法は欽定憲法(天皇が国民に下賜した憲法)なので、「欠陥がある」とは言い出しにくいのです。もちろん、明治憲法も改憲の手続きを定めてはいたのですが。

 参謀本部や軍令部は明治憲法が規定する機関ではありません。これらは、そもそも統帥権をつかさどる機関として設置されたのではありません。最初は、政治(政府)の影響力が軍に及ぶのを遮断する役割でした。明治の初期は、政治家であり軍人である西郷隆盛のような人が力を持っていました。そうすると、軍が政争に巻き込まれる可能性が生じます。それを避けようとしたのです。

 統帥権の独立と言うけれど、明治憲法のどこにもそのような規定はありません。内閣が担う輔弼の役割の範囲外と書かれてはいないのです。そうではあるけれども、既成事実の積み上げによって、政治や社会が容認するところとなった。戦前の日本にはシビリアンコントロールが根付かなかったですし。内閣には常に陸海軍大臣という軍人の大臣がいたので、純粋なシビリアンの内閣は存在しませんでした。

 そして、ある段階から、軍が自分の要求を通すための口実として統帥権を利用するようになったのです。ロンドン海軍軍縮条約(1930年に締結)あたりからですね。それに、政党も乗じるようになりました。

当時、政友会の衆院議員だった鳩山一郎が、同条約の調印は統帥権の干犯だとして、時の浜口雄幸内閣を糾弾しました。

吉田:そうですね。

高橋是清と原敬はどちらも政友会を率いて首相を務めました。政友会は親軍的なイメージがありますが、そうではないのですね。

吉田:ええ、少なくとも1920年代は親軍的ではありませんでした。

日中、日米、日ソの3正面で戦う

ここまでご説明いただいたような事情で、戦前・戦中の日本はずっと統一した意思決定ができなかった。

吉田:はい。そのため、1941年ごろには、3正面作戦を戦おうとしていました。なし崩し的に始まった日中戦争が泥沼化し、1941年12月には対米戦争が始まる時期です。

 1941年6月に独ソ戦が始まると、陸軍はこれを好機ととらえ、対ソ戦を改めて検討し始めました。ドイツと共にソ連を東西から挟み撃ちにしようと考えたわけです。関東軍が満州で特種演習(関特演)を行ったのはこの文脈においてです。

 この時、兵力はもちろん、大量の物資を満州に集積しました。「建軍以来の大動員」を言われる大きな動きでした。つまり、日露戦争よりも大規模な部隊を配備したわけです。しかし、予想に反してソ連が踏ん張り、極東に配備していた戦力を欧州戦線に移動しなかったので、対ソ戦は実現しませんでした。動員した兵力と物資は無駄になり、その後、ソ連とのにらみ合いに終始することになったわけです。