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統一した意思決定ができない明治憲法

盧溝橋事件(1937年)によって日中戦争が始まる前の1935年に、陸軍で軍務局長を務めていた永田鉄山が刺殺されました。総力戦をにらみ、それに耐える国家体制を作るべく様々な構想を練っていた戦略家です。彼が生き続けていたら、その後の展開は違ったものになっていたでしょうか。

吉田 裕(よしだ・ゆたか)
一橋大学大学院特任教授
専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。1954年生まれ。1977年に東京教育大学を卒業、1983年に一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年から教授。主な著書に『昭和天皇の終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など。(写真:加藤康、以下同)

吉田:そういう考えは、あり得ます。彼は非常に優秀な軍事官僚で、重要人物です。しかし、彼一人で状況を変えることができたかは判断がつかないところです。私は、より大きなシステム上の問題があると考えています。

システム上の問題とは?

吉田:明治憲法です。これが定める統治構造は分散的で、総力戦を戦うのに必要な統一的な意思決定をするのに不向きでした。さまざまな決定が折衷案もしくは両論併記になってしまうのです。

 例えば、陸軍は対ソ戦をにらみ北進を主張する。海軍は石油をはじめとする東南アジアの資源を求めて南進を主張する。すると、結論は「南北併進」になってしまうのです。1941年7月に開かれた御前会議はこのような決定をくだしました。

 さらに言えば、南北併進に基づく決定をしながら、政府は米国との外交交渉を継続するのです。戦争の準備をすれば日米関係は悪化します。外交交渉は進まない。つまり、その場しのぎの決定しかできず、それが悪循環を引き起こしたのです。陸海軍の間に統一戦略はない。政府と軍も進む方向が異なる。三つどもえの状態に陥っていました。

明治憲法のどこに問題があったのですか。

吉田:いわゆる統帥権*の独立ですね。

*:作戦・用兵に関する命令。陸軍の統帥部として参謀本部が、海軍の統帥部として軍令部があった。それぞれのトップは参謀総長と軍令部長

 総力戦を戦うのであれば、本来なら、国務(政府)と統帥(軍)が統一した戦略をもって臨む必要があります。しかし、これはなかなか実現しませんでした。

 「国家機関の分立制」「政治権力の多元性」といわれる仕組みを採用していたからです。「統帥権の独立」を盾に、軍は政府の外に立つ。軍の中でも陸軍省と海軍省が分立している。軍令*については陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が分立している。政府においても、各国務大臣は担当分野についてそれぞれが天皇を輔弼(ほひつ、補佐)する仕組み。各国務大臣の権限が強く、首相の権限は弱かったわけです。

明治憲法は、なぜ「国家機関の分立制」を採ったのですか。

吉田:同憲法の起草者たちが政党勢力を恐れたからです。政党が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して、天皇の地位が空位化することを恐れた。

 総力戦を戦うならば、明治憲法を改正しこれを改める必要があったと思います。