全3408文字

 東京五輪の開催まで半年を切った。中でも卓球では、張本智和や伊藤美誠など日本代表に内定した男女6人がいずれも実力者。個人、団体ともメダル獲得に期待がかかる。

 卓球界を見渡せば、ポスト張本の呼び声高い12歳の松島輝空など、次世代の層も厚い。

 日本卓球協会が20年近くにわたり、有望な子供たちを集めてエリート教育を施してきた成果が見て取れる。その立役者が、日本卓球協会の宮﨑義仁・強化本部長だ。小学生を対象としたナショナルチームを立ち上げ、若手選手の育成の先頭に立ち続けてきた。世界で戦える人材をどう育てるかを聞いた。

宮﨑義仁(みやざき・よしひと)
1959年生まれ。長崎県生まれ。中学校で卓球を始め、鎮西学院高校、近畿大を経て和歌山相互銀行(現紀陽銀行)入行。1985年の世界選手権シングルスで中国の団体戦金メダリストや欧州選手権2位の選手らを破りベスト8進出。ソウル五輪日本代表。2001年から12年まで男子代表監督。小学生を対象としたナショナルチームを創設し、中学生や高校生を含む若手の育成に注力してきた。現在、日本卓球協会の強化本部長。

2001年に小学生を対象としたナショナルチームを創設されました。そもそもの経緯からお話しいただけますか。

宮﨑義仁・日本卓球協会強化本部長(以下、宮﨑氏):01年4月に大阪で開かれた世界選手権で、日本の男子は過去最低の成績だったんですね。メダルなんか考えられない。ベスト8も難しい状況まで落ち込んでしまったんです。その夜、仲間で集まって、食事をしながら、将来のために何をすればいいのか、と議論したんです。その中で、今から小学生から立て直せば、10年後、15年後になんとか立ち直るかもしれない。そんな話になりました。

 じゃあ、それを誰がやるか。そのとき、村上恭和さん(現日本生命女子卓球部総監督)が「おまえしかいない」と言ってくれたんです。村上さんは、和歌山相互銀行の実業団チームで一緒に戦ってきた、僕の一番の理解者。その夜、和歌山の自宅に戻って、妻に「明日、退職届を出すぞ」と言って、本当に翌日に社長に退職届を出しました。

 社長だった尾藤昌平さん(故人)はびっくりしていましたよ。僕は秘書をずっとやっていて、尾藤さんにすごくかわいがってもらっていたので。でも、卓球界を立て直すために辞めさせてくれ、とお願いしました。41歳のときです。

銀行を辞める覚悟はかねてあったんですか。

宮﨑氏:いや、僕には銀行をなんとかしたい、という思いしかありませんでした。その意思を変えたのが、大阪の世界選手権。銀行は僕がいなくても誰かがやるが、卓球界は僕がやらないとつぶれる。若いながらにそう思って、銀行を辞める決意をしました。

社長はすんなり認めてくれたのですか。

宮﨑氏:社長からは2つの条件を言われました。1つは1カ月に1度は社長室に顔を出して近況報告をしろ。2つ目は、何か困ったことがあったら、まず俺に相談に来い、ということ。もちろん、承諾しました。

 結局、01年6月末に退職しまして、準備を進めました。まずは地元で卓球ショップを開いて生計の道筋を立てました。そして、卓球界を再建するために何が必要かを考えました。9月ごろに日本卓球協会の木村興治さん(現全日本テコンドー協会会長)から連絡があり、「立て直すなら今やってくれ」と言われました。私はそのとき、3つの条件を文書で出すことにしました。