ラグビーワールドカップ(W杯)の準々決勝で、日本代表に3-26で勝利した南アフリカ代表。肉弾戦の強さと鉄壁の防御がラグビーファンの目に焼き付いた。10月27日、決勝進出をかけてウェールズ代表と激突する南アフリカを応援しようという読者も多いだろう。アパルトヘイト(人種隔離)による対立を乗り越えた歴史を振り返りながら、南アの「強さ」をひもとく。
日本代表と南アフリカ代表が戦った準々決勝。満員の東京スタジアムに響いた南アフリカの国歌に、同国の分断と融和の歴史が刻まれている。
この国歌には、分断の象徴である「2つの歌」を組み合わせた経緯がある。

「主よ、アフリカに祝福を。その栄光が高く掲げられんことを──」。こう始まる1つの目の歌は、もともと聖歌として作曲された。ただし、アパルトヘイト下における黒人解放運動の象徴として歌われたため、「反逆歌」として禁止されていた。
もう1つの歌は、1957年から94年まで国歌として歌われた「南アフリカの呼び声」。アパルトヘイトを推し進めた白人政権の象徴だった。
アパルトヘイトは「分離」を意味し、白人と非白人を隔離する政策を指す。有色人種の参政権は認められず、各人種の居住区も分離された。同国では1948年から1991年までアパルトヘイトが続いた。国際社会から孤立し、経済制裁を受けたことが撤廃へとつながった。
ただし、アパルトヘイトが廃止された1991年以降も、言語や文化の違う人種間の対立が続いた。その融和に心を砕いたのが、1994年に黒人初の大統領に就いたネルソン・マンデラだった。マンデラは民族和解政策の一環として、この象徴的な「2つの歌」を組み合わせ、新しい国歌として制定したのだった。
ラグビーもまた、多様な人種で構成される南アフリカを1つにまとめる過程で重要な枠割を果たした。
英国から輸入されたラグビーは、同国にとって「白人のスポーツ」だった。1990年代に入っても、代表の呼称である「スプリングボクス」はアパルトヘイトの象徴であり、富裕層の白人には人気だが、貧困層にはほとんど興味を示されていなかった。95年当時、代表で非白人は1人のみ。アパルトヘイトに対する制裁で、ラグビーW杯の第1回(87年)と第2回(91年)には参加できず、ラグビーの国際舞台からは遠ざかっていた。
アパルトヘイト撤廃後に国際舞台へとようやく復帰し、南アフリカは95年にラグビーW杯の自国開催にこぎ着ける。映画『インビクタス/負けざる者たち』でも描かれた通り、マンデラはW杯自国開催を前にして、スローガン「ワンチーム・ワンカントリー」を掲げ、ラグビーを忌み嫌っていた非白人に対して「我々のチームを愛してほしい」と説いて回った。
声援に押されたスプリングボクスはW杯で快進撃を続けた。あらゆる人種を含む6万人で満員になったヨハネスブルクのエリスパークで開かれた決勝で、同代表はニュージーランド代表を破り初出場初優勝をなし遂げる。
背番号「6」のラグビージャージーをまとったマンデラが、同じ背番号「6」をつけたキャプテン、フランソワ・ピナールに優勝杯を手渡す瞬間を収めた写真は、「新しい南アフリカ」の誕生を印象付けるシーンとして語り継がれている。同国にとってラグビーは「アパルトヘイトの象徴」から「人種融和の象徴」となった。
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