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 日本時間の10月7日夕方から、2019年のノーベル賞受賞者の発表が始まった。7日発表の生理学・医学賞の受賞者に選ばれたのは、米ジョンズ・ホプキンス大学のグレッグ・セメンザ教授、英オックスフォード大学のピーター・ラトクリフ教授、米ハーバード大学のウィリアム・ケリン教授の3人。2年連続の日本人の受賞は実現しなかったが、3人の研究に基づいて開発された医薬品が既に日本でも承認されており、実用的な研究だったといえる。

2019年のノーベル生理学・医学賞は米英の3人の研究者に贈られる(c Nobel Media.Ill. Niklas Elmedhed.)

 受賞対象となった研究は、細胞が酸素の状態を検知するメカニズムの解明。アスリートが高地トレーニングを行ったり、最近では低酸素ルームを備えたスポーツジムが登場したりしているが、これは低酸素環境に身を置くことで、エリスロポエチン(EPO)という生理活性たんぱく質をつくり出して赤血球を増やすことを狙ったものだ。赤血球が増えると酸素の運搬能力が上がり、持久力が高まる。

 では、低酸素の環境にあるか否かを細胞はどのようにして見分けているのか。その際に重要な働きをするのが「低酸素誘導因子(HIF)」というたんぱく質だ。ノーベル賞受賞者の3人は、HIFを見いだしたり、HIFが酸素状態を見分ける詳細なメカニズムを明らかにしたりしてきた。

 赤血球を増やすEPOそのものを投与する遺伝子組み換え製剤は1980年代後半に登場。腎臓の働きが低下して生じる「腎性貧血」の治療薬として長年使われてきた。日本でも90年にキリンビールと中外製薬が販売を開始している。

 一方、EPO製剤は持久力を高められることから、ドーピングにもよく用いられてきた。自転車レース業界では、ツール・ド・フランスなどの国際大会で何度も優勝した有名選手が2012年に米国反ドーピング機関から永久追放の宣告を受けるというスキャンダルがあったが、この時のドーピングの対象にもEPO製剤が含まれている。EPOはそれほど顕著な生理作用を示すたんぱく質なのだ。

 ただし、EPO製剤は注射投与しなければならないという課題があった。また、動物細胞を使って製造する遺伝子組み換え製剤であるため、価格も高かった。

 これに対して、ノーベル生理学・医学賞を受賞した3人の研究は新しい治療法の開発に道を開いた。通常の酸素レベルだとプロリン水酸化酵素という酵素が働いてHIFにヒドロキシル基(-OH)が結合し、それを目印にしてHIFが分解されてしまうが、その酵素の働きを妨げる低分子の医薬品の開発が進められた。同じ作用の候補品5つがしのぎを削る状況となったが、日本では米ファイブロジェンとアステラス製薬が共同開発してきた「エベレンゾ」(ロキサデュスタット)が9月に承認を取得。世界的にも、中国に続いて日本で先んじて実用化することになった。ノーベル賞の受賞が決まったケリン教授は、ファイブロジェンの科学諮問委員会の委員を務めてもいる。

 ロキサデュスタットは経口薬なので、これまで注射薬を使ってきた腎性貧血の患者にとっては使い勝手が良くなる。一方で、尿中にも排せつされるので、ドーピングに使うと検出されてしまうだろう。

 ドーピングという観点では、むしろEPOの産生を増やすような遺伝子ドーピングも警戒されている。一方で、HIFはEPOの産生だけでなく、低酸素状態に対応する様々な生体反応に関与していることも明らかになっている。慢性炎症やがんの転移との関係なども報告されており、腎性貧血以外の医薬品の開発につながる可能性もある。いずれにせよ、EPOに関連するサイエンスの進展が、様々な疾患を抱える患者に恩恵をもたらすと同時に、新しい倫理的な問題を生じさせる1つの例とえるだろう。

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