それは不思議な光景だった。大型の機械から伸びた細いチューブ。男性がそのチューブを鼻に入れてガムを噛むと、機械につながったパソコン画面には波形が表示された。男性がガムを噛むほどその波形は大きく上に振れ、噛むのをやめてガムを口から出すと、元の数値まで下がっていく。「これは今私が体感していたガムのミント味の変化を表しています」。ニチレイの技術戦略企画部の畠山潤氏は、鼻からチューブを抜いてそう説明した。

ニチレイが開発した揮発性成分分析器「エムエスノーズ」と、開発者でニチレイ技術戦略企画部基盤技術グループマネジャーの畠山潤氏
ニチレイが開発した揮発性成分分析器「エムエスノーズ」と、開発者でニチレイ技術戦略企画部基盤技術グループマネジャーの畠山潤氏
 

 日々の食事の中で感じる「おいしさ」は感覚的なもののため、そのメカニズムは完全には解明されていない。同じ成分の食材を調理すれば同じおいしさの食事になると思えるが、実際には高級料理店にしか出せない「おいしさ」は多い。その「おいしさ」を科学的に数値化して、再現することはできないか。食品大手ニチレイが進める研究は、そんな発想からスタートした。畠山氏が実践して見せたのは、その研究の要となる揮発性成分分析器「MS Nose(エムエスノーズ)」による鼻腔(びくう)中の空気の分析だ。

 エムエスノーズは鼻から吸引した空気に含まれる数百種類の臭い成分を測定する機械で、1996年に英国ノッティンガム大学のアンディ・テイラー教授が開発し、販売していた。鼻腔の空気を測定することで、嗅覚で味をどのように感じたかが分かるという製品だ。鼻腔から吸引した空気に4000Vの高電圧をかけ、イオン化した成分を測定している。

 ところが、同製品の旧型には検出できない成分も多かったことからビジネスとして成り立たず、数年で販売停止を余儀なくされていた。2006年に嗅覚の研究に悩んでいた畠山氏がそのコンセプトに注目し、数年かけて改良型をニチレイで自社開発した。冒頭でガムのメンソールを測定したのは、その改良型エムエスノーズだ。

 なぜ、嗅覚の分析が「おいしさ」の数値化につながるのか。畠山氏は「美味しいという感覚は、味覚、聴覚、視覚、触覚、嗅覚で構成されるが、特に重要な役割を果たすのが嗅覚」と話す。「おいしさ」という感覚を再現するには、味覚に影響する味付けだけでなく、嗅覚による味の感じ方を分析することが欠かせないという。

 そもそも、人が食事中に感じる嗅覚には2種類のルートがある。鼻から直接嗅ぐ香りと、口に入れて飲み込むときに喉から鼻に抜ける香りの2つ。これまでも直接食品の香りを分析する取り組みはされていたが、実は後者の影響が大きいと分かってきた。食品が噛み砕かれて唾液と混ざり、口の中で揮発して喉から鼻に抜けていく空気こそが「おいしさ」に直結しているからだ。

 エムエスノーズで実際に何ができるのか、テイラー教授が研究したミント味のガムを例にとろう。ガムのミント味は通常5分程度しかもたず、より長く楽しむためにはどうすればいいか、メーカー各社は頭を悩ませていた。ミントを口に含んだときのスーッとした感覚はメンソールによるため、メンソールを多く含ませればいいとも思えるが、実際にメンソールを増量しても持続時間はほとんど変化しなかった。そこで、テイラー教授がエムエスノーズを用いて鼻腔中の空気の変化を測定したところ、「味を感じなくなるタイミング」はメンソールが切れたときではなく、糖分が切れて甘味がなくなったときだと判明。ミント味を感じるにはメンソールと甘味の2つが必要だったのだ。実際にメンソールの量を変えずに甘味成分を増やしたところ、持続時間は30分程度まで大幅に延びた。

 このほか、ニチレイは味をそのままに脂肪分を減らしたカレーの開発を進める。カレーの「おいしさ」は脂肪分とスパイスが複雑に絡み合うため、ただ脂肪分を減らすとコクがなくなり、味も変化してしまう。ニチレイはクミンなどのスパイス量を調整することで、「おいしさ」はそのままに、10%あった脂肪分を2.5%まで減量することに成功した。カレーをなぜ美味しいと感じるのか、そのポイントを押さえたからこそできた事例と言えるだろう。

エムエスノーズの全体像。ニチレイが独自開発したのは鼻腔の空気を吸引して臭い成分をイオン化する部分で、一部は市販されている農薬の成分分析器を流用している
エムエスノーズの全体像。ニチレイが独自開発したのは鼻腔の空気を吸引して臭い成分をイオン化する部分で、一部は市販されている農薬の成分分析器を流用している
 

 ニチレイはエムエスノーズの研究を基に、新規事業の創出を目指している。背景にあるのは食の好みの多様化だ。食品メーカーの努力によって高い品質の商品は増えたが、「最大公約数的なおいしさ」を追求しても、舌の肥えた消費者が増えている中では大きなヒットになりにくい状況になっている。「むしろ、一人ひとりに合ったおいしさを提供するサービスが求められるようになる可能性がある」と畠山氏は話す。

 ニチレイは今後、有名料理店のスープなどを分析して、「美味しい」と効果的に感じる製品の開発を目指す。既にある冷凍食品では性別によって好みに違いがある、食べる頻度によって味の好みが違うといった分析結果が出ている。また、受託分析サービスも展開していて、数社から引き合いがあるという。

 従来はなかったテクノロジーを食品開発に用いるFoodTech(フードテック)は世界中で広がりを見せる。3Dプリンターで成形したハンバーガーや培養肉でできたハンバーグなど、現状では食品側からアプローチしたものが多い。そこに、「なぜ美味しいと感じるのか?」を分析するという消費者側からのアプローチが加わるだけでも、世の中に受け入れられやすい商品を効率的に開発できる。ニチレイが進める「おいしさ」の研究は、これまでになかったタイプの食品開発にも役立つかもしれない。

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