独フォルクスワーゲン(VW)の社長や監査役会会長を務めたフェルディナント・ピエヒ氏が死去した。享年82歳。25日に独南部のレストランで倒れ、搬送先の病院で亡くなった。死因は明らかになっていない。同社を世界一の自動車メーカーに育てた自動車業界の巨星の功績を振り返る。

 ピエヒ氏は1937年ウィーン生まれ。独ポルシェ創業者であり「ビートル」開発者であるフェルディナント・ポルシェ氏の孫に当たる。63年にポルシェ入社後、72年にVW傘下の独アウディに転籍。取締役、社長を経て1993年にVWの社長に転じると、業績不振にあえいだ同社を復活させ、その後、2015年に監査役会会長を退任するまで、20年以上にわたって最高実力者として君臨し続けた。

 先人の死を追悼し、VWのウォルフスブルク工場やドレスデン工場には半旗が掲げられた。ヘルベルト・ディース社長は27日、「何よりも自動車業界に細部にわたる品質と完璧さをもたらし、それをVWのDNAとして深く定着させた。私は、ピエヒ博士の業績に感謝とともに尊敬を感じている」とのコメントを発表した。

 自動車業界に詳しいナカニシ自動車産業リサーチの中西孝樹・代表アナリストは「無邪気で天才的なエンジニアと、冷静で強権的な経営者。その『2つの顔』がピエヒ氏の最大の特徴であり、VWをトップメーカーにした最大の理由だろう」と話す。

 1つ目の顔であるエンジニアとしての功績の一つは、現在は一般的となった四輪駆動車の開発だろう。1980年に発表したアウディ「クワトロ」は、四輪駆動と言えばトラックなどの商用車か軍用車が大半だった時代、高性能スポーツ車に採用したことが話題を呼んだ。

 アウディはこの車種で81年に世界ラリー選手権に参戦し、翌年に優勝するなど一世を風靡する。直列5気筒エンジンや空力計算による車体設計、車体へのアルミの採用など、次々に先進的な技術を取り入れ、「技術のアウディ」のイメージを確立していく。「プレミアムブランドとしての基礎はこうした技術によって築かれたと考えている」(アウディジャパン広報)。

 アウディから93年にVWの社長に転じたピエヒ氏。当時はドイツ統一による新車ブームが過ぎ去った後で、VWは苦境にさらされていた。買収したスペインの「セアト」が経営危機に陥っていたほか、ヒット車がほとんどない状態。工場も他社に比べ高コストで、経営課題は山積みだった。

 同氏は、2つ目の顔である強権的とも言える経営者として施策を打ち出していく。まずサプライヤーとの価格交渉をゼロベースで見直すと同時に、余剰人員を抱えていると言われた独国内工場に対し、労働組合とぶつかりながらも週休3日制のワークシェアリングを導入。「独裁的だったが、従業員を簡単にリストラしない新しい経営手法を自動車産業に持ち込んだ」という意見も根強い。

 プラットフォーム(車台)の共通化も一気に推し進めた。複数車種の共通部品を増やして生産を効率化させるもので、現在、VWが採用しているプラットフォーム「MQB」の源流である。