マレーシア政府は2月24日、マハティール首相が国王に辞表を提出し、受理されたと発表した。各紙報道によれば、国王は同日、後任が決まるまでの間、暫定首相を務めるようマハティール氏に命じたという。

 マハティール氏は1981年から2003年の長きにわたり首相として長期政権を築いた。その後は第一線から退いていたが、18年5月の総選挙に出馬し、大方の予想を裏切って返り咲きを果たす。前政権の腐敗を一掃し、いわゆる「中進国の罠(わな)」にはまっている経済を立て直すことができる数少ない政治家として、国民は老雄の手腕に期待した。

 だが再登板から2年弱で政権は混乱の極致に陥った。マハティール氏の退任時期や後継者選びを巡って政権与党内の対立が激化し、その責任を取るためにマハティール氏は辞任を決めたという。

2月24日、首相を辞任したマレーシアのマハティール氏(写真:ロイター/アフロ)

 マレーシア国民の多くは今回の政変を既視感をもって眺め、そして失望しているのではないだろうか。

 マハティール氏が返り咲きを果たした18年5月の総選挙はマレーシアにとって歴史的な日だった。1957年の独立以来初となる政権交代が実現したからだ。それまでの歴代首相は統一マレー国民組織(UMNO)というマレー人の利益を代表する政党から出ていた。マハティール氏もUMNO出身だが、2018年の総選挙では新しい政党を結成し、野党を糾合して地すべり的勝利を収めた。

 このマレーシア初の政権交代の実現に期待する声は高かった。たとえばマレーシアプトラ大学のジャユム・アナ・ジャワン教授は「これまで我々は実質的に1つの政党しか持たず、政治のチェック機能が働いていなかったことが政治の腐敗につながった」と指摘。今後は圧倒的な権力を持つ政党が密室で政争を繰り広げて次のトップを決めるのはなく、「与党と野党が活発に議論し、新しい成長のアイデアを持つ政党が政治のかじ取りを担うという2大政党制が根付くかもしれない」と当時話していた。

 もっとも、ジャユム教授が期待する政治を実現するには、1つの条件があった。「マハティール氏の早期の禅譲」だ。18年の総選挙時、国民はマハティール氏の手腕のみに期待をかけていたわけではない。2人の指導者を同時に見ていた。1人はマハティール氏、もう1人はアンワル元副首相だ。

 学生組織の指導者だったアンワル氏は1982年にマハティール氏に見いだされる形で議員となり、教育相や財務相など重要ポストを歴任。93年には副首相に就任した。マハティール氏の後継者として注目され、その関係は親子にも例えられた。

 だが90年代後半に両者の蜜月は終わりを迎え、対立することになる。98年、アンワル氏は副首相を罷免され、逮捕される。翌年には権力乱用罪で禁錮6年、さらに2014年にはマレーシアが禁じる同性愛行為の罪で禁錮5年の有罪判決を受けた。

 アンワル氏の政界からの追放と逮捕の背後に、仲たがいをしたマハティール氏の意向が働いていると見る向きは強い。マハティール氏とアンワル氏のジェンダーに関する考え方の違いや、経済政策に対する路線の対立、そしてアンワル氏がマハティール氏をクローニー(縁故)資本主義であると批判する風潮をつくり出して退陣を狙ったことなど、対立の背景についてははっきりしないものの様々な指摘がある。

 いずれにせよ、18年の総選挙までマハティール・アンワル「親子」は断絶していた。マハティール氏の著書で13年に邦訳出版された『マハティールの履歴書 ルック・イースト政策から30年』では「(経済路線の対立や政争が背景にあるとの指摘は)全くのお門違い」とし、アンワル氏の同性愛行為に関するスキャンダルが副首相解任の契機になったことが描かれている。

 その上で「私は人には寛容だと思っている」が「世界中から注目される中で、私を悪魔呼ばわりしたアンワルだけは許すことはできない」「アンワルは今頃マレーシアの首相に就任していたはずだった。首相に就任していないのは自分が起こした行動によるものだ」「彼を解任したことはけっして間違いではなかった」と記している。

続きを読む 2/2 国民が思い描くも実現しなかった「美談」「期待」「夢」

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