タクシン派政党の首相候補に擁立されたウボンラット王女(写真:AFP/アフロ)
タクシン派政党の首相候補に擁立されたウボンラット王女(写真:AFP/アフロ)

 タイの国民の間に衝撃が走った。3月24日に予定されている総選挙の首相候補に、王女が擁立されたからだ。2月8日、タクシン元首相派のタイ国家維持党(パッ・タイ・ラクサ・チャ)はウボンラット王女(67歳)を首相候補として届け出た。故プミポン前国王の長女で、現ワチラロンコン国王の姉に当たる。王室関係者が首相候補になるのは初めてで、極めて異例の事態とされる。

 ウボンラット王女は貧困対策や麻薬の撲滅を目的とした活動を主導するなどの活動で知られ、国民から支持は高い。昨年5月には、タイの人気アイドルグループBNK48の人気楽曲「恋するフォーチュンクッキー」に合わせて歌い踊る姿がテレビで放映されたり、動画サイトにアップされたりして話題を集めた。

 タイ国家維持党は王女擁立の理由について、「王女殿下が首相となって人々を助けサポートする時期が来たと決意した」との公式コメントを発表したが、これを字義通りに受け止めるのは難しい。背景には現政権を握る軍とタクシン派、そして王室それぞれの思惑が交差しており、軍に有利に進んでいるとされる選挙戦でタクシン派が逆転するために打った一手であるとみる向きが多い。

 汚職罪に問われ国外に逃亡しているタクシン元首相は、地方の農民から支持を受けて2001年と05年の選挙で圧勝したが、06年に勃発したクーデターで失脚。その後2011年の選挙では妹のインラック氏が首相に選出されたが、2014年のクーデターで国を追われている。以来、タイは軍が政治の実権を握ってきた。軍政は度々総選挙の実施を延期し、ようやく今年3月に実現する見通しが立った。

 とはいえ、軍政は実質的に8年ぶりとなる総選挙の仕組みを親軍政党である国民国家の力党(パラン・プラッチャーラット)に有利に定めた。たとえば首相の指名には下院500議席、上院250議席の両院で過半数の指名が必要だが、うち上院議員は軍政が任命することになっている。投票の仕組みや区割りもタクシン派に不利に作られているという指摘がある。

 タクシン派は地方の農民や低所得者層から根強い支持を受けており、支持者数の多さから選挙に強いといわれる。伝統的なエリート層やバンコクの中間層を支持基盤とする軍政が政権の維持と「タクシン派潰し」を狙ってこうした制度を導入したことは明らかだ。

 タクシン派にとって厳しいのは、訴える政策自体が国民国家の力党などと大きく違いは見られないことだ。どの政党も異口同音に貧困や格差対策、経済の高度化などを主張するが、いずれもこれまで4年に渡って軍政が重視してきた施策でもあった。こうした背景から、タクシン派は苦戦するとの見方が出ていた。

 だが「人気勝負」の選挙戦で人気のあるウボンラット王女が登場したことで、その行方はわからなくなった。加えて、タイでは王室への批判は「不敬罪」に当たり処罰の対象となる。つまり他の政党からすれば王女を候補として擁するタクシン派を表立って批判できなくなる恐れもある。タクシン派は選挙中の論戦を有利に進められるだろう。

 タイでは王室関連の話題はタブーとされているため、王室と軍、タクシン派との関係は見えづらい。だが16年のプミポン前国王の崩御を受けて即位したワチラロンコン国王と軍との関係が良好でないことを不安視する見方は出ていた。

 一方で、ウボンラット王女とタクシン氏は家族ぐるみで親しい間柄にあると見られ、タクシン氏やその息子とウボンラット王女とがともにサッカー観戦を楽しむ様子などが目撃されている。「王室も一枚岩でない。これまでは故プミポン前国王が複雑な利害関係をコントロールしてきたが、新国王のもとでは統制が効きづらくなっている」。ある研究者はこう指摘する。軍が総選挙後も実権を握り続けることや、若年層を中心に、王室に対する意識が薄れていることを不安視しているのではないかとの見方もある。

 いずれにせよ、今回の選挙でタクシン派が完全な勝利をおさめウボンラット王女が首相に就任した場合、「国外逃亡中のタクシン氏が特例によってタイに戻る道が開ける」(同研究者)。

 タイでは選挙のたびにタクシン派、反タクシン派の対立が激化し、混乱を引き起こしてきた。4年続いた軍政が終わり、ようやく民政移管選挙が実現するが、今回もまた、タクシン派の復権でこれまでと同じ混乱に陥る恐れが高まってきた。

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