「泳げない者は沈めばいい」

1枚1900円のフリースジャケットなどを大量に販売し大ブームを巻き起こす。写真は1999年(写真:読売新聞/アフロ)
1枚1900円のフリースジャケットなどを大量に販売し大ブームを巻き起こす。写真は1999年(写真:読売新聞/アフロ)

 転機が訪れるのは90年代後半。SAPモデルで急成長を遂げてきたが、販売と製造のタイミングのズレから生じる機会損失や在庫がだぶつきに苦慮していた。背景には本部主導で店舗の発注や在庫、売り場を管理してきたことで「消費者が見えなくなった」ことがあると、当時のある幹部は記事で証言している。それを教訓に、ファストリは店長に権限を大幅に移譲し、「店長が主役」の経営へと転換していく。

 そうした動きと並行して、98年11月に首都圏で初の都心型店舗を東京・原宿を出店。同年冬に1着1900円で発売したカラフルなフリースが大きなブームを巻き起こす。玉塚元一氏(後にローソン社長)など当時30代の人材を幹部として招き入れ、経営体制の強化も図った。

フリースブームを起こした当時のファストリの柳井正社長(写真:読売新聞/アフロ)
フリースブームを起こした当時のファストリの柳井正社長(写真:読売新聞/アフロ)

 2001年、柳井氏の半生を描いた記事には、柳井氏が日本的な商慣習やなれ合いを廃した原理原則の経営を貫き、世界標準となる商品や事業を自らつくり出そうと挑戦している当時の姿が記録されている。1%でも可能性があるなら挑み続けようという柳井氏の気迫は、自身が好きだという次の言葉にも表れていると、その記事は紹介している。

「泳げない者は沈めばいい」

 2005年、日経ビジネスはファストリ1社で特集を組んだ。タイトルは「ユニクロ作り直し 柳井正 無限成長への執念」である。

 フリースブームの後、その反動にファストリは苦しんだ。2002年に野菜販売に参入するも2004年には撤退。2005年には社長を任せていた玉塚氏が退任。そして再び、柳井氏自ら、成長へと猛烈な勢いで会社をけん引し始めた。

 フリースブームの反動を克服した原動力は、さらに磨きをかけたSPAモデルだった。2009年8月期に過去最高益を更新。2009年の特集「ユニクロ 柳井イズムはトヨタを超えるか」では、サプライチェーンを効率化し、技術に裏打ちされた高付加価値の“工業製品”を作り出していくファストリは、“もの作り企業”としての側面をより一層強めていると、当時の取材班は分析している。その姿はまるで、トヨタ自動車をも彷彿(ほうふつ)とさせるというわけだ。

ファストリは東レと共同でヒートテックなどを開発してきた。左は東レの日覺昭廣社長。写真は2011年(写真:アフロ)
ファストリは東レと共同でヒートテックなどを開発してきた。左は東レの日覺昭廣社長。写真は2011年(写真:アフロ)

 同年の編集長インタビューで、柳井氏は次のように語っている。

「ユニクロの商品は、生活必需品とファッションのちょうど中間、あるいは両方兼ね備えたものです。(中略)日本企業として、ファッションの世界で成長できるとしたら、そういう分野なんじゃないかなと思っていました。我々が海外に出れば、日本企業ですから、日本代表として見られる。(中略)例えば、洋服に『ヒートテック』など新しい機能を付け加えて売っています。これまでは『SPA(製造小売り)=ファッション』と捉えられてきたと思いますが、それは違う、新しいタイプのSPAなんです。そんな我々の価値観が、世界でも受け入れられ始めたということだと思っています」

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