
「読むだけではなく、体感する日経ビジネス」をコンセプトに、記事だけではなくオンライン/オフラインのイベントなどが連動するプロジェクト
AI(人工知能)やサブスク……。新しい技術や急成長するビジネスが登場するたびに、世間にはバズワードが流布する。だが、持続的に成長していくには、ブレない経営の軸が必要だ。「同時代性の罠(わな)」に惑わされないための、60分の思考訓練。毎回、注目企業をケースに、一橋ビジネススクール教授の楠木建氏と社史研究家・杉浦泰氏が解説する。
最終回となる第6回のテーマは「スズキ」。織機メーカーから始まり、オートバイ、自動車へと業容を広げ、日本の軽自動車市場をリードしたスズキ。インドでは、日本の自動車メーカーとして初めて進出した先駆者として、約5割と圧倒的なシェアを誇る。小型車では確固たる地位を確立した同社の経営を、過去に遡って分析する。
今回はウェビナーに先立ち、2006年に日経ビジネスに掲載した鈴木修・会長兼CEO(最高経営責任者、当時)の編集長インタビュー「インドは後戻りしない」を再掲載する。インド進出から既に20年以上を経ていたスズキ。その陣頭指揮を執る鈴木修氏は、インドを欧州攻略に向けたアジアの拠点と見据え、挑戦し続けるスズキの苦闘について語っている。
■こんな方におすすめ
+仕事の意思決定において、ブレない思考を養いたい方
+スズキの経営に関心のある方
+楠木氏、杉浦氏の著書『逆・タイムマシン経営論』を読んだ方、もしくは興味がある方
+製造業の現場に勤務している方
+企業の歴史、産業の歴史に興味がある方
■開催概要
テーマ:ケースで学ぶ「逆・タイムマシン経営論」
スズキはなぜ良品廉価を守り続けられるのか
開催:2021年6月30日(水) 20:00~21:00
受講料:日経ビジネス電子版の有料会員:無料(事前登録制、先着順)
※有料会員でない方は、まず会員登録をした上で、参加をお申し込みください(月額2500円、初月無料)
20:00 オープニング
20:05 スズキの戦略と事業環境の変遷を、創業当時にまで遡りながら分析。「逆・タイムマシン経営論」の視点から、楠木氏、杉浦氏が同社の強さを分析する。
20:45 質疑応答
21:00 クロージング
■講師

一橋ビジネススクール教授
1992年、一橋大学大学院商学研究科博士課程修了、一橋大学商学部専任講師、同助教授、同大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授を経て、2010年から現職

社史研究家兼ウェブプログラマー
1990年生まれ、神戸大学大学院経営学研究科を修了後、みさき投資を経て、現在は社史研究家兼ウェブプログラマーとして活動。社史研究は2011年からスタートし、18年1月から長期視点をビジネスパーソンに広める活動を開始(ウェブサイト「決断社史」)。現在はウェブサイト「The社史」を運営する
■教材
+楠木建・杉浦泰著『逆・タイムマシン経営論 近過去の歴史に学ぶ経営知』(日経BP)
+逆・タイムマシン経営論 第1章 飛び道具トラップ
+逆・タイムマシン経営論 第2章 激動期トラップ
+逆・タイムマシン経営論 第3章 遠近歪曲トラップ
■編集長インタビュー
鈴木 修 氏[スズキ会長兼CEO(最高経営責任者)]
インドは後戻りしない
24年前にインドに進出、今では乗用車市場の過半数を占める。
インドをアジアにおける欧州とし、欧州攻略の拠点と見据える。
ブームの前から苦闘した先達の見るインドとは。(聞き手は本誌編集長、井上 裕)
*「日経ビジネス」2006年5月8日号より。固有名詞や肩書、数字などは掲載当時のママ。読みやすさや時代背景を考慮し一部表現を改めた部分があります。

BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の一角、インドがブームになりました。スズキは1982年に国営メーカーに出資、その合弁会社マルチ・ウドヨグは乗用車販売で今、56%のシェアを握る。今のインドをどう見ていますか。
鈴木修氏(以下、鈴木):先日も元大蔵省財務官の榊原英資さんから依頼があって、インド関係の研究団体のアドバイザーになれと言う。それで俺は言ったんだ。「BRICsの1カ国だから行け」という話なら(米証券会社の)ゴールドマン・サックスに聞いてこい、とね。
BRICsなんて言葉はゴールドマンが最近言い出したこと。それでインドブームになったんだ。BRICsもブームもスズキがインドに出た後なんだから、我々には関係ありませんね。
当時なぜインドへ。
鈴木:山登りじゃないけれど、「そこにインドがあったから」ですね(笑)。75年にパキスタンに進出した時、社員がインドの「国民車構想」を聞きつけてきた。外資と組んで国民車メーカーを立ち上げると言う。ならば、パキスタンに続いてインドも、と立候補しました。
僕がスズキの社長になったのが78年。当時、日本の自動車メーカー12社中の12位。頑張ったところで日本で1位にはなれそうもない。ならば、1番になれる国はないかと考えていた。社員の士気も上がるでしょう。
自動車メーカーのないインドに行けば1番になれるという、単純明快で落語みたいな結論ですね。正確には地場のメーカーが2社あったのだけれど、年産1万台、2万台という規模でしたから、ものの数ではなかった。
あと、政府と組んでやるというのが魅力だったんだな。日本の12番手の自動車メーカーなんて、外国に出ていって自力でやるなんて力はない。かといって、下手に民間企業と合弁すると後でトラブルに巻き込まれるのが怖い。相手が政府なら安心だと。
当初の出資比率26%には、どんな意味があったんですか。
鈴木:当時、スズキの半期の経常利益が約50億円だったから、その範囲で出資しようとしたのです。出資金が丸々焦げついてスズキが無配になっても、次の半期には配当ができる。スズキの社長として俺の首はつながるかなと考えたわけだ。想定していた合弁会社の資本金が約200億円だったので、インドの法律で拒否権を行使できる26%にしたのが実際のところです。
今でこそインドの乗用車市場は100万台ですが、20年以上前に自動車を作るとなると大変だったでしょう。
鈴木:生産を開始した83年は840台作りましたが、苦労したのは部品です。「インドで自動車を作る」と言っても、日本の部品メーカーは1社も一緒に行ってはくれない。「インドなんかで車ができるわけないじゃないか」というイメージでしたからね。
部品を日本から全部持っていって組み立てるノックダウン生産で85年の年産5万台まで急ピッチで拡大した。そうすると部品メーカーも関心を持ってきて、「インドでも車はできるかね、ちゃんと動くかね」という感じで工場をのぞきに来るようになった。そして、8万、9万、10万台と拡大するに従って、徐々にインドに出てきてくれた。
合弁パートナーのインド政府とはうまくやっていたのですか。
鈴木:第三者割当増資をスズキが引き受ける形で出資比率を段階的に50対50まで持っていった。その後、96年に政権が代わってしまった。すると、新しい政府はマルチが儲(もう)かっていることから「スズキの本社は暴利をむさぼっている」とか言い始めた。こっちは3000人ものインド人社員を日本の工場で研修させたり、部品も利益が出ないくらいの価格でインドに持っていったりして、何とか成功させようと努力しているのにですよ。
決定的なけんかになったのはトップ人事です。前の政府とは社長と会長を交互に1人ずつ出すという約束だったのに、理屈をつけて2人とも政府から出すと言う。そこで私は激怒した。でも裁判をすればスズキが勝つことが分かって和解の申し入れがあったんだ。
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