人間は、自分にとって不都合な事実を、容易には認められない
ただし、ダメおやじさん、もっちゃんさんのお二方が指摘されていることですが、親の健康状態を、本人との直接のコミュニケーションによって把握することは、なかなか困難です。なぜなら、親に限らず多くの人は、自分の健康状態が悪化してきていることを認めることがつらく、またその事実を他者に知られることを嫌がるものだからです。
誰であっても、自分の認知能力が衰えてくれば、将来が怖くなります。その恐怖は、実際に体験してみないと、本当の意味では理解できないものでしょう。それにもかかわらず、周囲は、本人に対して「どうして正直に教えてくれないのか」と責め立ててしまったりもするのではないでしょうか。隠していることを責められると思えば、さらに隠したくなるといったこともあるように思います。
『死ぬ瞬間』の著者、エリザベス・キューブラー・ロスは、自らの死期に近づいた人間は、否認→怒り→取引→抑うつ→受容という5つの感情的段階(順番は変化することもある)を経験すると主張し、もちろん批判もありますが、おおむね、世界的に受け入れられています。認知症は、自分が自分でなくなってしまうという意味で、本人からすれば死にも等しいものかもしれません。その意味で、キューブラー・ロスのモデルは、認知症に苦しむ人にも当てはまる可能性があります。
キューブラー・ロスの5段階モデルが参考に

キューブラー・ロスによれば、否認の段階にある人は、自分が死ぬことはないように考え、話し、行動します。これは、自分の消失はもちろん、愛する人々との別れといった深い悲しみに接している人間にとっては正常な反応と考えられています。ただし、こうした反応は、次の怒りの段階に至るまでの一時的な反応とされています。
この段階にある人は「そもそも生きるとは」「そもそも死とは」といった、答えのない根源的な問いに強制的に向き合わされています。そうした人に必要なのは、周囲からの精神的な支えであって、客観的な診断や治療、一般的な意味での介護ではないかもしれません。この段階を超えると「なぜ自分なのか」といった怒り、「もう少しだけ時間をもらえないか」といった取引、取引ができないことを悟ることによる抑うつに至るとされています。そして最終的な死の受容は、友人や家族、介護に関わる人々との対話を通して起こるそうです。
自らが死ぬことはもちろん、認知症になることなど考えたくもないのが人間らしい人間なのかもしれません。であるならば、まだなんとか健康な状態にある親と「もし認知症になったら」といったテーマで話し合うことの難しさだけでなく、重要性も際立ってきます。最終的な受容には、他者との対話が必要とされているからです。