“えんがわ”に集まるそれぞれの明日
カフェ・オニヴァの斜向かいに全面ガラス張りの不思議な古民家がある。色は黒で統一されており、四方は幅広の縁側で囲まれている。社員の一挙手一投足は丸見え。コーヒーカップに手を伸ばす仕草まで見て取れる。敷地に塀はほとんどなく、隣接する寄井座との行き来を妨げるものは何もない。
もちろん、オープンなのは建物だけではない。近所のご老人が縁側に上がってくることなど朝飯前。視察で来た外部の人が入れ代わり立ち代わり入ってくることもしばしばだ。それでも、いつものことなのだろう。社員は気にしたふうもなく目の前の仕事に没頭している。
「ここで飲み会をしていると、なんだか知らないけどおばあちゃんがいたりするんですよ。まるで座敷童わらしのように(笑)。『あの、どちら様でしたっけ?』ということが結構ありますね」。そう隅田が苦笑するように、ここでは外部の視線から身を隠すところがないほど、何から何まで開かれている。
ここはえんがわオフィス。番組情報(メタデータ)の運用・配信を手掛けるプラットイーズのサテライトオフィスである。
メタデータとは、主にテレビ局などが業務用に使う番組詳細情報のことで、出演者や粗筋はもちろん、映像に関する細かな技術パラメータや著作権情報、営業(CMや番組販売)情報などが記録されている。最近では、ウェブにおける映像配信が進んだこともあって一般視聴者の利用も進みつつある。このメタデータを全国のケーブルテレビ局やCS放送局などに提供している企業がプラットイーズである。
創業者は先の隅田徹、52歳。2001年にプラットイーズを設立すると、2013年7月にサテライトオフィス、「神山センター(通称、えんがわオフィス)」を開設した。さらに、次世代の映像規格、スーパーハイビジョン(4K・8K)のデジタルアーカイブ事業を手掛ける「えんがわ」も設立、今では2社の社員がえんがわオフィスで働いている。
神山に現れた起業家
隅田が来たことで、神山はさまざまなものを手に入れた。典型的なのは雇用だ。
こちらで触れたように、2013年7月以降、プラットイーズとえんがわは20人の社員を採用した。うち17人が徳島県出身であり、6人が神山町の人間である。どこの地域でも同じだろうが、地元の人々が切に望んでいるのは子供や孫が帰ってくること。その意味でいえば、えんがわオフィスは地元の希望である。
隅田の、起業家ならではのスピード感も神山に刺激を与えている。
実は、隅田は神山で宿泊施設を造ろうとしている。コンセプトは「大人の合宿所」。遍路宿でも温泉宿でもなく、ビジネスパーソンがワイガヤ働く大部屋タイプの宿泊施設だ。
「ここの2階は大広間になっていまして、プラットイーズや知り合いの企業の社員がしょっちゅう合宿に来ています。これが意外にイイんですよ。みんなでご飯を食べたり、酒を飲んだり、地域の人たちと交流したりする中で仕事を片付けていく。企画系が典型ですが、8割の人にパフォーマンス面でいい効果が出ている。何より、参加者の満足度が高い」
合宿形式の仕事の仕方は効果的──。それを確信した隅田はすぐさま事業計画を作成、地権者との交渉を始めた。
「たまたま知っている方だったので。自分も賛同できて、町やみんなのためになるならいいよ、ということなので、ちょっとプランを考えたんですよ」
と隅田は事もなげに言うが、思い立ってすぐに仕掛けるスピード感はそれまでの神山とは次元が違う。
そして、場としての機能である。
えんがわオフィスでは毎晩のように飲み会が開かれる。参加者はサテライトオフィスの進出企業であったり、グリーンバレーの仲間であったり、たまたま神山にいた視察者であったり、オープンな隅田の人柄もあって交わることのなかった人々がえんがわオフィスに集う。
これまで、岩丸百貨店がサテライト関係の社員や神山塾生などをつなぐ機能を一手に引き受けていた。それが今では、えんがわオフィスとカフェ・オニヴァというもうひとつの核が生まれた。放っておくと、人間は特定の集団に固まるもの。それをかき回す意味は大きい。
隅田自身もどっぷりと神山につかっている。
横浜の借家を引き払い、神山町内のある集落に居を構えた。プラットイーズの取締役なので月に一度は東京に行くが、生活のベースは完全に神山である。集落の18戸でなる在所(地域の会合)にも欠かさず参加するなど、コミュニティにおける貴重な“若手”として役割を果たしている。
「面倒だと思う人には苦役なのかもしれないけど、ぼくは単純にここでの生活を楽しんでいるんですよ。在所にしてもやらなきゃならないことが多いけど、基本的に経験していないことばかりなので。五感が満たされている感じかな」
隅田は今、神山という「梁山泊」に不可欠な存在になっている。
それにしてもなぜ、隅田はサテライトの場に神山を選んだのだろうか。それを知るには、時計の針を3・11まで戻さなければならない。
「神山の時の流れはちょうどいい」
東日本大震災が浮き彫りにした課題の1つに、災害時の事業継続がある。3・11では部品メーカーが被災したことで、トヨタ自動車など完成車メーカーが生産停止に追い込まれた。高度なサプライチェーンを構築しているがゆえに、ひとたび連鎖が滞ると、自社の工場が無事でも供給が止まってしまう。
この種の問題を防ぐため、多くの企業が取引先などに事業の継続計画(BCP=Business Continuity Plan)を求めるようになった。災害が発生した時にいかに業務を続けるか。中断に追い込まれた場合にどの程度の時間で業務を復旧させるか。それを戦略的に準備しておかなければならなくなったのだ。
大手放送局などと取引があるだけに、プラットイーズもBCPを作る必要に迫られた。具体的には、東京オフィスが被災しても業務が続けられるように拠点を分散することだ。既に、経営の一線を引いていた隅田は拠点探しのために日本中を探し回った。
「島根だ、大分だ、高知だ……と全国20カ所くらい回りました。実は徳島は候補に入ってなかったんですが、私の元上司がたまたまテレビ番組を見て、『徳島の山の中に面白そうな町がある。ダメもとで行ってこい』と。それで、高知の帰りに寄ってみたんですが、ほかと全然違いました。ああ、ここしかないな、と」
彼を引きつけたのは、グリーンバレーのいい意味のいい加減さだ。
企業誘致に力を入れている自治体は熱心なだけに、「来てください、来てください」と肩に力が入っている。一方のグリーンバレーは「来たらええんちゃう」と自然体。エコにしても何にしても、「××しなければならない」ではなく、「それぞれができることをやればいい」と極めてゆるい。
同様に、特定のリーダーが地元の人々を牽引する地域が多い中で、神山は大南がリーダー的な立場にいるものの、先頭に立って周囲を率いるタイプではない。グリーンバレー自体も大南を含めたネットワークで成り立っている。この空気がオープンかつフラットを是とする隅田の肌に合った。
「完全に大南マジックだよ。グリーンバレーにほだされて、いつの間にか神山のファンになっていた」
隅田はそう振り返る。
もちろん、神山のIT環境も決断の大きな要因だ。
「まえがき」でも触れたように、徳島県の通信環境は全国の中でも優れている。その中でも、神山町とお隣の佐那河内村は設備を含めた通信インフラがピカイチ。隅田によれば、東京・恵比寿の本社オフィスよりも通信速度が速いという。
「ひとことで言えば、やり過ぎちゃったんでしょうね。軽トラしか走っていないところに3車線の高速道路を造っちゃったみたいな。いろいろなところを調べましたけど、ここは西日本一といっても過言ではない。もう、映像関連の企業にすれば天国のようなところですよ」
一方で、サテライトオフィスを設けたほかの企業と同様に、新しい働き方を模索したいという思いも当然あった。
日本では都会のオフィスで働くことが半ば当然になっているが、海外に目を向ければ、ローカルオフィスで働くケースは数多く、ヘッドクオーターがローカルにあることも珍しくない。次のSansan神山ラボで触れるが、働く場所の変化はアウトプットに好影響を与える。創造性が求められる仕事は特にそうだ。
社員に刺激を与えるという面では、自然環境に優れ、キャラ立ちした人間が数多くいる神山は最適な場所。ただ、その目的を達成しようと思えば、隅田の押しつけではなく、社員自らが喜んで足を運ぶ場所でなければ意味がない。そう考えたからこそ、コストをかけてオシャレで機能的な古民家に改修したのだ。
「プラットイーズのポリシーであるオープン&シームレスを体現するという意味は当然ある。ただ、それ以上に社員が来たくなる場所でないと。東京のオフィスと違いを感じて、それでいて快適で、若い人たちが来たいと思える場。そんな場をつくりたかったんですよ」
隅田は続ける。
「ぼく自身が住んでみて思いますが、ここのペースは都会の人たちに間違いなくプラスになると思う。今の時代、世の中のペースが速いでしょう。だから流されちゃうんだよ、世の中のペースに。その時は、ちょっと立ち止まって本質を考える。そういう面で神山の時の流れはちょうどいい」
「あなた、バカじゃないの?」
拠点分散の要請、グリーンバレーの雰囲気、リッチなIT環境、そして働き方の挑戦──。このように、隅田が神山を選んだ理由は指折り数えることができる。だが、結局のところは、隅田に流れる起業家の血が騒いだということなのかもしれない。
実は、隅田はプラットイーズを設立するまでに企業をふたつつくっている。1989年に設立した「スカイポートセンター」という映像配信プラットフォーム会社と、92年の「CSサービスセンター」である。
米ニュース専門放送局、CNNのテッド・ターナーに憧れた隅田は大学卒業後、CNNの番組を配信していたテレビ朝日系列の日本ケーブルテレビジョンに入社した。当初はADとして番組制作に関わっていたが、3年目に社内の新規事業制度に応募、首尾よく採用されてスカイポートの設立に関わった。その事業提案は衛星を使った番組供給サービスだ。アナログ版の「スカパー!」だと思えばいいだろう。
ところが、よりによって借りていた衛星が宇宙空間で故障した。代替衛星も使えなかったため、スカイポートは事業継続が不可能に。結果的に最初の起業は失敗に終わった。
捲土重来を期した隅田は同様のビジネスを手掛けるCSサービスセンターを設立、リベンジマッチに乗り出した。こちらは順調で累損を一掃する程度の利益は出したものの、株主が満足するほどの利益成長ではなく、ディレクTV(現スカパー!)に身売りされることが決まった。98年のことだ。
「ある日突然、外国人の社長が来て、『皆さん、お疲れさまでした』という世界。それまでは経営企画や新規事業で楽しくやっていたのですが、社内的に2回×が付いてしまって……。本社に戻った後はノベルティーグッズの管理や社員の経費精算など、どうでもいいような仕事に回されました」
それでも、懲りない隅田は3回目の事業計画を出した。メタデータの編集や配信を手掛けるプラットイーズの原型である。だが、2回も失敗している隅田にカネを出すほど会社は甘くない。そして、会社を辞めた隅田は家屋敷を手放してプラットイーズを設立した。
「自宅は勝手に売ったので、妻は半ば発狂していましたね。『あなた、バカじゃないの』って。その後、離婚することになるのですが、間違いなくドラマの伏線にはなっていますね。いや、一番まずい伏線のひとつでしょうね。そんなことで怒るなんて、当時は1ミリも思っていませんでしたから」
度重なる起業経験がそうさせるのか、隅田は常人とはリスクに関する感覚が違う。DO or NOTの選択でNOTに決断を下すことはほとんどない。人生のポリシーは「できることをやる」。事業創造や課題解決に無上の喜びを感じる様は、まさに起業家の名にふさわしい。
「死ななきゃならないこと以外、リスクではない。ここにサテライトをつくらなければ、東京で別の会社を作っていただろうね」
そんな隅田にとって、神山は自身の経験とノウハウが生かせる格好の場に映ったに違いない。
神山には自然環境や人材、IT環境など素材が揃っている。だが、少子化と高齢化は深刻で、若者の数は減り続けている。その中で自分にできることは何か。まずは映像関連で雇用をつくることだろう。ゆえに、プラットイーズとは別に、将来の需要増が見込まれる4K・8Kの映像に特化したえんがわを設立したのだ。
「子供を育てるなら神山がいい」
今では、えんがわオフィスは神山の希望になりつつある。
「子供を育てるなら神山がいいってずっと思っていたんですよ。まだ結婚もしていないけど、こっちに戻ることができて本当によかった」
2013年9月にえんがわに入社した広岡早紀子は言う。神山町には農業高校の分校しかないため、進学する子供の多くは徳島市内で下宿生活を送る。卒業後に戻りたいと思っても役場や農協以外に勤め先がほとんどないため、そのまま市内や大阪などで勤め先を探さざるを得ない。事実、広岡も市内の会社に就職した。
戻れるのなら神山に帰りたいと思っていた。だが、仕事の場はそう簡単には見つからない。どうしようか。そう考えていたところ、偶然、えんがわの人員募集の話を耳にした。「ああ、これやなと。無事に受かってホッとしました」と広岡は笑う。
2013年2月にプラットイーズに入社した谷脇研児もそうだ。
徳島県阿南市出身の谷脇は22年間、ジャストシステムに勤めた。ジャストシステムは浮川和宣・初子の夫妻が1979年に創業した徳島県の地場ソフトウエア大手で、オーナー企業ならではのおおらかな社風で知られていた。そこで、谷脇はソフトウエア開発や商品企画などに関わってきた。
ところが、2009年にジャストシステムがキーエンスと資本業務提携を締結したことで、谷脇の人生は暗転していく。
工場センサー大手のキーエンスは自己資本比率が90%を超える超高収益企業。社員の年収も桁違いに高いが、それだけに激務で、社員に求めるアウトプットも極めて厳しい。社内がキーエンス色に染まる中で、そのやり方についていけない社員が相次いだ。谷脇も東京本社に転勤した翌年にジャストシステムを辞めている。
「有り体に言えば、肩たたきですね」
単身赴任で東京に出た谷脇は、ここで自分の人生を見つめ直した。このままジャストに残っても、恐らく自分の居場所はない。だが、何をすればいいのかよく分からない。やりたいことを見つけるため、勉強会などに参加し、自分の役割を考えた。
そして、地域づくりにたどり着く。
谷脇は阿南市の椿泊(つばきどまり)という漁村で生まれ育った。これまで生まれ故郷は不便な、ただの田舎としか見ていなかった。だが、東京という遠く離れた大都会で思い起こした椿泊は、海があり、山があり、棚田があり、都会にない魅力に満ちていた。東京に飛ばされたことで、地元の価値に気づいたのだ。
徳島に戻り、自分のできる範囲で椿泊をもり立てよう──。そう思ったちょうどその時に、サテライトオフィスの噂を聞き、えんがわオフィスが設立されることを知る。そして、谷脇は採用の有無をプラットイーズに問い合わせた。
「神山で何が起きているのかを体験したかったというのが大きいですね。隅田親分には怒られてばかりですが、この年で怒られる環境にいるのはホンマにラッキーだと感じています」
このふたりだけでなく、えんがわオフィスは神山塾生の雇用の場にもなっている。
もちろん、ここに希望を見いだしているのは社員だけではない。ほかならぬ隅田がそうだ。
妻とは既に別れた。引き取った一人娘も大学入学で手を離れている。自らが産み落としたプラットイーズも10年目の2011年に社長を退いた。ひとつの区切りを迎えた隅田にとって、次の人生をどう生きるかということは切実な課題だったろう。そんな時に出合った神山は次の舞台として申し分ないものだった。
神山に役割を見いだした隅田。彼もまた、救われている。
隅田は最近、林業について考えを巡らせている。
かつて林業で繁栄した神山。だが、木材価格の低迷とともに林業は衰退した。今では補助金なしでは成り立たず、放置された山は荒れ果てている。その中で、森の機能を取り戻し、林業を業として成り立たせる術はないか、それを考えているのだ。
「全国には林業が成立しているところもあるけど、高齢者のボランティアが前提の場合も多い。ただ、ビジネスベースで採算に乗るようなモデルでないと、民間が考える意味はない。いろいろ勉強しているけど、なかなか『これだ』というプランが出てこない。久しぶりに難しいパズルだね」
山の再生は多くの山村が頭を抱えている課題であり、一朝一夕に解決策が出るようなテーマではない。だが、起業家である以上、ビジネスという観点で何かしらの答えを出さなければ存在意義はない。難しい。だからこそ、腕が鳴る──。流浪の起業家は自身の意義を問い続けている。