「さつま白波を抜き、芋焼酎で真の日本一の会社になる」

 2001年正月。社長の江夏順行は年頭所感で、社員を前に中期3カ年計画を発表した。その中核をなすのが「福岡2倍作戦」だ。福岡県を戦略的地域と位置づけ、2年で売り上げを倍増する方針を掲げた。九州最大の酒販激戦区福岡で、芋焼酎だけで1升瓶換算100万本の販売を目指す。かつてない意欲的な目標を定め、順行は「絶対に達成する」と社員を鼓舞した。

 大胆な作戦を掲げたものの、景気の足取りは鈍かった。日本経済はバブル経済崩壊後の不況が続き、消費増税をきっかけに消費者マインドも依然として冴えない。大手企業では春闘で「ベアゼロ回答」が相次ぎ、個人消費の自律的な回復は期待できなかった。

 食品業界も転換期を迎えた。2000年6月に雪印乳業が集団食中毒事件を起こし、約1万5000人に被害が及ぶ。戦後最大の食中毒事件となり、メディアも経営陣の杜撰な対応を連日糾弾した。消費者の食品業界に向ける視線が厳しくなった。この事件を機に、食品の安心・安全を巡るトレーサビリティーのニーズが高まった。

 景気の状況は芳しくない。だが、何としても目標を達成しなければならない。順行は社内に一体感の雰囲気を醸し出すため、ある仕掛けを試みた。

 製造部長と営業部長をそれぞれ呼び出し、全社員の前で握手することを命じた。それまでは「造ってなんぼ」の製造と「売ってなんぼ」の営業は水と油の関係。先代順吉が製造にしか関心を示さず、必然的に営業との距離が遠かったことに起因する。両者には対立の構図があった。現に製造畑が長い専務の拓三が黒霧島を開発する過程でも、営業の上層部との衝突が絶えなかった。

 社内は縦割りの意識が強く、連携してプロジェクトを進める機運はまるでない。だが、順行は全社一体で難局に立ち向かう決意を示したのだ。ある中堅社員は「製造と営業の部長が握手をすることは、以前では絶対にあり得なかった。福岡で売るという社長の覚悟が伝わった」と振り返る。

すべての経営資源を「黒霧島」に投入

 初めて部門別の目標も取り入れた。営業は販売数量や県外の売上高比率を細かく定め、製造は稼働率や供給体制の指針を設けた。福岡決戦の号砲が鳴った。

 2001年春、企画室では福岡県に攻め込むキャンペーンの基本方針を決めた。①黒霧島を認知してもらう②黒霧島を経験してもらう③黒霧島がお客様に届く状態を作り出す──という3本の柱を定め、広告・宣伝、試飲会、サンプリング活動、各種キャンペーンに乗り出す戦略を立てた。持てる経営資源のすべてを黒霧島に投入することを決めた。

 企画室で福岡のキャンペーンを担当した一人が松尾忠洋だ。1997年に入社し、当時27歳とまだ若かった。地元の宮崎大学を卒業し、最初は宮崎市内を中心とする営業を任された。

 1998年の黒霧島発売後、宮崎で根っからの“キリシマファン”に新しい商品の特徴を伝えようと試みた。

 「黒霧島は創業時に使っていた黒麹を用いた商品なので、これまでの白麹の霧島と味が違うんですよ」と。

 だが、消費者は理解できない。

 「えっ、黒麹ってなに? 白麹と同じ麹じゃないの? 何が違うわけ?」

 霧島の愛飲者でさえ、こうした反応が大半を占めた。

「トロッとキリッと黒霧島」

 この経験を踏まえ、松尾は「黒霧島の魅力を説明するには『言葉』が必要だ」と痛感する。何度も試飲し、黒霧島の特徴をどう表現するのが最も適切か、知恵を絞り出した。

 松尾は拓三と協議を重ね、特性を確認した。

 まず、黒霧島の風味には三つの特徴がある。①とろりとした甘み②原料の香りが弱い③後切れが良い──。

 これを言葉で表現するとどうか。①トロッとした(甘味)スキッとした(後味)②トロッと、スキッと③トロッとスッキリ──が候補に挙がった。最終的に拓三が決断し、キャッチコピーは「トロッとキリッと黒霧島」に落ち着いた。簡易な言葉で、初めての消費者にも特性が伝わるようにした。商品の愛称も「クロキリ」に決まる。

 ただ、松尾は2001年当時の社内の雰囲気をこう思い返す。「芋焼酎を県外の人に対し、積極的に紹介するのは引け目を感じた」。都会の福岡はいわば「九州の東京」にあたる。九州域内で南端の宮崎は田舎呼ばわりされることが少なくない。しかも、時代の主流は麦など穀類焼酎だった。全社員に強い覚悟が求められた。

 営業のリーダーには現在常務の坂口和幸が就いた。坂口は「福岡には会社の先輩が苦労して築いた土壌があった。販促キャンペーンも展開したことがあり、彼らの背中を見ていたので自分もやらなければと感じた」と話す。福岡を攻める営業部隊は12人体制。しかし、最初は「都会に対する恥ずかしさがあり、慣れるまで時間がかかった」と、その頃を振り返る。

 だが、号砲が鳴った。もう後戻りはできない。商品普及の戦略は地道な営業による「地上戦」と、CM宣伝強化の「空中戦」を重視した。

「ハローレディー」が全店訪問

 最初に電話帳を片っ端から調べた。福岡県にある酒販店の数を把握するためだ。すると、スーパーマーケットやディスカウントストアを含め、およそ5000店あることが分かった。ここに送り込んだのは、男性営業マンではない。新しく募集した「ハローレディー」と呼ぶ女性たちだ。福岡市と北九州市にエリアを分け、全店訪問を敢行した。

 なぜか。

 焼酎に限らず、一般的にお酒の営業は男性が担当することが多い。あえて女性の販促部隊を組織したのは、福岡というアウェーの土地で突破口を開くのに、有利になると判断したからだ。

 昔ながらの酒屋には「頑固オヤジ」がデンと座っていることも少なくない。そんな場所でも女性であれば、和やかに営業トークを進められる可能性が高いと考えたのだ。

 5000店の酒販店については、まず霧島酒造の製品の取り扱いがあるかどうかを丹念に下調べした。「A=黒霧島あり」「B=黒霧島なし、他の霧島商品あり」「C=霧島商品なし」と分類し、後者の店舗を集中して攻めた。

 7人のハローレディーを採用し、それぞれに「武器」を授けた。ノボリやポスター、グラス、ポットといった販売促進グッズである。毎日、訪れる店舗をきめ細かく決めた。黒霧島を酒販店に置いてもらうための戦いが始まった。なにしろCMを流しても、酒販店に商品がないと消費者に届きようがない。

 「宮崎県の霧島酒造から、新しい黒の商品が出ました。どうですか?」

 北九州地区を担当した久保美幸は1日30軒近くの店舗を回った。「新しい黒の商品」と売り込んだのには理由がある。当時、福岡は清酒の勢力がまだ強く、焼酎といえば「いいちこ」か「二階堂」の麦が定番である。「芋焼酎」と言ってしまうと、それだけで芋臭いと敬遠されかねない。なるべく「芋」という言葉を出さないよう気を配り、代わりに「黒」を強調した。

 久保は新聞広告でハローレディーの募集を知る。専業主婦だったが、大学に進学する息子がいたため、家計の足しになればと霧島酒造に出かけた。

 面接では「黒霧島を紹介してもらうことになります。人前で笑うことはできますか?」と質問された。久保は少し戸惑いながらも「笑えます」と答え、採用が決まる。面談の基準は、笑顔が何よりも大切だった。

 久保は焼酎を飲んだ経験がなかった。正直なところ、日本酒の方がおいしいと感じていた。しかし、自分が勧める商品を知るために晩酌で飲み始めると、黒霧島の風味自体が好きになった。営業にも自然と熱が入るようになる。

 実際、頑固オヤジの前では微笑みを常に絶やさなかった。ただ、最初は「うちは白波があるからいいよ。芋焼酎はこれ以上いらない」と店頭で邪険にされることが多かった。慣れない営業は精神的に辛い。だが、同じ店に足繁く通ううちに、少しずつ商品が普及した。

 黒霧島の納入に成功した後も、店には定期的に訪れた。棚の陳列を直し、焼酎の補充を手伝う。酒販店側から苦情や要望も聞くようにした。久保は「最初はどうなるか心配だったが、徐々に人気が出て、多くの店が黒霧島を受け入れてくれた。それがうれしかった」と明るい表情を見せる。2001年の秋頃には6割を超える酒販店に黒霧島を納めた。

 北九州市で「酒のフジヤ」を経営する山岡一幸はハローレディーの営業を高く評価する酒販店の一人だ。「女性ならではの視点で、お店をこんなレイアウトにしたらどうかと提案をくれる。他にこんな酒造メーカーはない」と話す。現在も久保は「入荷状況は大丈夫ですか?」と定期的に店を訪問し、親密な関係を保っている。

 一方で、主力の男性営業部隊を続々と宮崎県から福岡県に派遣した。彼らは「クロキリ隊」を名乗り、住民たちに黒霧島を直接振る舞った。

無料サンプルを朝の駅で配布

 「黒霧島です。黒霧島、どうですか」

 朝7時から博多駅や天神駅、福岡県庁前に、若い6人の営業マンが辻立ちして大声を張り上げた。手元には100ミリリットルの無料サンプルの黒霧島が大量にある。出勤時に選挙候補者が演説する光景は時に見られるが、朝から人々にお酒を配る営業スタイルは前代未聞だった。それだけで人目を引いた。

 営業統括常務の坂口は「とにかく、職場で黒霧島の話題が出るようにしたいと考えた」と狙いを語る。

 通常ならば、お酒のサンプルは「夜」もしくは「繁華街」で配るのが基本だ。試供品は「家」に持ち帰り、試してもらうことになる。

 これに対し、霧島酒造はユニークなシチュエーションで無料サンプルを配った。黒霧島は「朝」に「駅」で出勤前の会社員に大量配布した。当然、サンプルは「職場」に持ち込まれる。作戦の狙いは、仕事中に飲んでもらうことではない。話題づくりにあった。

 最初、宮崎県からの上京組はなかなか大声を出せなかった。多くが地元出身者で、福岡はたまの休日に買い物などで出かける大都会である。人も多い。単純に気後れしたからだ。

 坂口は「お前ら、ちゃんと言わないか。『黒霧島です』としっかり腹の底から声を出さないか」とどやしつけた。次第に、営業マンにも照れがなくなり、要領を得ていく。

 無料サンプルは1日2000本ほど配布する。夕方6時頃になると、20代の6人の営業マンが狭い福岡支店に集まった。明朝向けのサンプルを準備するためだ。

 テーブルに並んで座り、機械のような流れ作業をこなす。1人が箱から小さい商品を取り出し、別の1人がそれにチラシを輪ゴムでくくりつける。次の1人がビニール袋に詰め、最後の1人が再び箱詰めする。サンプルの準備に1日2時間ほど費やした。その後は、一人ひとり、飲食店などへと営業に飛び出す。

 若い営業マンは疲れを知らなかった。作業中も他愛のない会話で盛り上がり、話の種が尽きるとシリトリで単純作業の退屈さを忘れた。

 だが、最初の1年は、早朝の無料サンプルをなかなか受け取ってもらえない日々が続いた。寝ぼけ眼のサラリーマンから冷たい一瞥を投げかけられた。どうにか手にしてもらおうと、ちょっとしたコツを考えた。試供品を入れたビニール袋の持ち手部分をねじり、通行人がさっと受け取りやすくなるよう工夫を施した。

 誰かから「最近、あそこの店に黒霧島が入りだしたよ」と報告を受けると、皆が我が事のように「よかったね」と讃え合った。営業マンたちは自宅に帰ると、「小さな喜びを励みにしながら明日も頑張ろう」と寝床についた。

「新しい商品なので、飲んでもらうしかない」

 1993年入社の営業マン、小出水政義は「福岡では芋焼酎は臭いというイメージが定着していた。今までにない新しい商品なので、とにかく飲んでもらうしかないと思った」と当時の印象を顧みる。

 サンプルにはアンケート用紙も同封した。黒霧島を職場に持ち帰った人を対象に、簡単なアンケートに答えてもらう。それをファクスで霧島酒造に送ると、その会社まで1ケース(200ミリリットル30本入り)の黒霧島を無料で届ける仕掛けがあった。

 「霧島酒造です。商品をお持ちしました」

 小出水はオフィスにずかずかと入り、ここでも大声を張り上げた。福岡に拠点を持つ県内外の大企業から中小企業まで、ファクスを受け取ると、どこにでも顔を出した。数千人規模の会社もあれば、数人規模の小所帯もある。配達エリアも福岡の中心地から、北九州、熊本の県境まで足を運んだ。クロキリ隊は、まさに神出鬼没の営業マンの集団に成長した。

 「まさか本当に来るとは思わなかった」

 「えっ来てくれたの。もしかして来ればという感じだったのに」

 小出水が会社を訪問すると、相手は例外なく喜んだ。30本の焼酎が無料で飲めるのだから当然だろう。しかも、わざわざ会社に運んでくれる。小出水は「お客さんの驚く顔を見るのが営業マンの喜びの一つだった」とうれしそうに語る。無料サンプルの配布エリアは全員で協議して決めた。

 普通の営業マンが取引先の職場にいきなり足を運ぶのは、時に非礼となる。だが、早朝の「種まき」が奏功し、小出水らは門前払いされることはほとんどなかった。こうして配布した無料サンプルは10万本を優に超える。

元旦も無料の振る舞い酒

 元旦も働いた。

 福岡の中心地である中洲近くの櫛田神社。近辺の居酒屋「しんちゃん」に協力を得て、初詣帰りの人を対象に黒霧島の振る舞い酒を用意した。甘酒は全国どこでも見かけるが、無料の焼酎は聞いたことがない。

 福岡の正月は冷え込む。大晦日の前日から準備し、神社の入り口に立って、紙コップに入れた温かい焼酎のお湯割りを手渡した。

 「これも芋焼酎なの? 案外飲みやすいね」

 「ありがとう。あったまるよ」

 黒霧島のノボリを立て、新年早々から懸命にアピールした。

 時にはこんな声も聞いた。

 「黒霧島、知ってるよ。頑張れよ」

 営業マンの胸に熱い思いが込み上げた。小出水は「地元の高校を卒業し、何も考えずに入社したが、がむしゃらに営業したことで会社とともに自分も成長できた」と自負している。

 黒霧島の販促では、昔ながらのドブ板営業も大きな効果を発揮した。

 福岡市の酒類卸大手「ヤマエ久野」の酒類部次長、堂原久稔は「霧島酒造のローラー営業はすさまじかった。無料サンプルの配布や飲食店への営業訪問など、売れない時代から泥臭く営業した成果が表れた」と指摘する。

義理と人情の営業マン

 今も博多の街にその名をとどろかせる霧島酒造の営業マンがいる。1988年に初代福岡支店長を務めた乙守顕である。

 中洲の近くで小料理屋を30年弱営んだ「志野」の女将は、乙守が忘れられない。開店から3年は取引先との関係があり、違う焼酎のボトルを売った。それでも、乙守は週に数回は律儀に顔を見せる。そして、お酒を黙って飲んで帰る。女将は義理堅さに心を打たれ、3年後に霧島酒造の焼酎をキープボトルに変えた。乙守は後輩の社員にも「小さな店でも丁寧にしっかり回りなさい」と指導した。

 女将は「乙ちゃんは義理と人情の男だった。その精神が現在の霧島酒造に受け継がれている」という。それに比べ、お盆や正月にしか顔を見せない酒造メーカーの営業マンは「ただの『ボンクラ』よ」と笑い飛ばす。

 こんな出来事もあった。

 ある休日、霧島酒造の若手営業マンが「少し出かけましょう」と女将を誘う。彼が何も言わずに車を飛ばすと、都城に着いた。都城には霧島酒造の本社がある。焼酎文化の街だ。

 だが、女将が日本酒好きだと営業マンは知っている。女将は地元のスナックやクラブに連れ回されたが、常に日本酒があった。ある店ではコーヒーのフラスコでお燗を振る舞われた。女将は「今も忘れられない経験になった。とても楽しい思い出」と追想する。

 2001年夏から販促キャンペーンに携わった松尾は、天神の居酒屋で、たまたま居合わせた客が「おーい、黒霧島ちょうだい」と注文する声を耳にした。思わず鳥肌が立った。

 小出水ら営業マンにも「黒霧島おいしいよ。ロックがいいね」といった激励の言葉が増えた。商品が少しずつ躍動し、酒販店からも「黒霧島、売れるかもしれないね」との期待感が示された。

民放番組で「黒霧島」を絶賛

 決定打は、お笑い芸人ナインティナインの矢部浩之が2002年10月に民放番組「ナイナイサイズ!」で放映した「自分好みの焼酎を探すことができるか」という企画だった。矢部は都内の居酒屋を3軒回る。焼酎アドバイザーの店員による助言を受け、芋、米、麦、黒糖の焼酎をそれぞれ試した。

 店員に「どんなのがいいですか」と聞かれ、矢部は「スーとするのがいい」と答える。そこで薦められたのが黒霧島。矢部は一口啜ると「飲みやすい。うまいなぁ!」と絶賛の声を上げた。お湯割りを頼んでも「全然飲みやすい」とグイグイ飲んだ。約20銘柄試し、矢部は「クロキリがナンバーワン」と断言する。番組収録のスタジオでは相棒にも薦め、岡村隆史も「あー、これはいい。すごくいい」とにっこり笑った。

 その翌日から、大量の注文書が各支店に舞い込んだ。霧島酒造のホームページへのアクセス件数は放映前の5倍に跳ね上がる。メールによる黒霧島の問い合わせも急増した。

創業以来初めての二桁成長

 過去に例を見ない販促キャンペーンに加え、地道な正攻法の営業が功を奏した。販売量は福岡進出から3年でほぼ倍増する。結果として、悲願の1000万本(1升瓶換算)の販売を達成した。2003年3月期に販売数量は前期比13%伸びた。

 二桁成長は創業以来初めてになる。黒霧島だけで前年比倍増の400万本(同)の売り上げを記録した。メガヒット商品に育つ予感が漂った。

 宮崎県から北上したマイナーな酒蔵だった霧島酒造は、九州焼酎戦争で存在感を急速に高めつつあった。

 前福岡支店長の吉永修は「今ではどこの飲食店に行っても、黒霧島は必ずメジャー商品として置いてある。博多はもつ鍋、水炊き、焼き鳥、魚とおいしい料理が多く、そういう場所に商品がしっかり入っている状況をつくり出した」という。

 玄界灘の新鮮な魚料理を提供する博多駅前の居酒屋「魚八」。厨房の奥の棚には常連客がキープしている黒霧島のボトルがずらりと並ぶ。

 女将は「昔は麦焼酎もあったが、気がついたら芋焼酎だけになった。霧島の営業さん、よく顔を見せますよ」と語る。

 お店で黒霧島を飲んでいた40歳代の会社員、副島弘美は「クロキリは博多女性の味方。低価格でボトルをキープできるので、日常的に飲むようになった。冬場はビールだと身体が冷えるため、お湯割りを愛飲しています」と笑顔を見せる。

 福岡市に住む30歳代の公務員、瀬利綾子も「大学生の頃は麦焼酎を飲んだが、黒霧島が出てからは飲み会の定番商品に変わった」という。地元都城のスナック街から拾い集めた報告の声には嘘偽りがなかった。女性にも難なく受け入れられた。芋焼酎の世界では画期的な進歩といえる。

「赤霧島」も限定販売

 飲食店だけでなく、一般の家庭でも黒霧島が飲まれるようになった。ボトリングのラインを急遽テコ入れし、家庭用に紙パックの商品を供給できる体制も整えた。

 2003年10月には、原料の芋に珍しいムラサキマサリを活用した「赤霧島」を数量限定で発売した。

 ムラサキマサリにはポリフェノールが含まれる。焼酎の製造過程でクエン酸と反応することで真っ赤なもろみに仕上がる。それを蒸留すると、甘味と独特の香りが漂う焼酎になった。これまでの霧島や黒霧島とひと味違う商品がラインアップに加わった。希少価値の高い商品として認知され、クロキリに続いて、アカキリの愛称も浸透した。

 創業以来、会社は順風満帆に初めて動き出したかのように見えた。だが、九州焼酎戦争はそんなに甘くはなかった。