カズラ島での散骨は、花や木などの樹木を墓石の代わりとした自然葬である樹木葬に近い。だが、青い海に囲まれた無人島を“墓標”としているので、遺族心情的には海洋散骨に近いのかもしれない。

 もう一組の参加者にも話を聞くことができた。

 田畑よし子(68歳、仮名)は島根県江津市在住。夫を2015年12月にがんで亡くした。散骨には娘夫婦と3歳になる孫の計4人で参加してきた。

 亡き夫は地元海士町出身。しかし、夫は三男なので島の一族の墓には入れない。闘病生活は長かったが、「墓のこと」は死を連想させるため、夫に切り出せなかったという。田畑は言う。

 「私の実家の菩提寺に、新しく墓を造り、夫と私がそこに入る、ということも考えました。しかし、娘夫婦は転勤族なので、管理をお願いするのも申し訳ない。永代供養墓を求めることも考えましたが、管理料がずっと発生する煩わしさがありました。それに一般的な墓も永代供養墓も、最終的には墓を守れなくなり、無縁仏になります。そこで私は、知人に相談してみました。10人中4人から『自分は散骨がいい』という意見がありました。『そんなに? 散骨することは今の時代では普通のことになっているんだ』と分かったことで、吹っ切れたんです。島全体を墓と考えれば、永久的に存在し続けます。散骨でも供養の場が残るというのはいいですね」

 ただし、散骨する上で、田畑が躊躇したのが粉骨だ。散骨する際には、遺骨を細かくパウダー状に粉砕しなければならない。前述の花田は散骨の前に、海士町の火葬場が所有する「自動粉骨機」を利用した。田畑の場合は、遺骨が長年連れ添った夫、ということもあり、どうしても粉骨の現場に立ち会いたくはなかったという。田畑は日本郵便のゆうパックで夫の遺骨を業者に送って、予め、粉骨を終えていた。

いざ、散骨島へ

 この日、散骨島へと向かう朝は、真っ青な空が広がり、海は凪いでいた。島に渡るには絶好のタイミングである。

 花田と田畑の2組は、港から業者がチャーターした漁船に乗り込んだ。出航して5分。こんもりと茂みに覆われた小島が前方に見えてきた。カズラ島だ。溶岩の断崖に囲まれ、普通であれば人が立ち入れるような島ではないことは一目瞭然だ。

浮き桟橋が設けられた散骨島。ここから崖を上がって島の上部で散骨する。

 現場にはこの日のために浮き桟橋が設けられていた。上陸すると、島の上部へと続く遊歩道が整備されている。遊歩道を上りきった林の中が、散骨場所になっていた。ふと見ると、お地蔵さんが一体置かれている。散骨場は木道が整備されているが、辺りはほぼ手付かずの自然のままだ。

 参加者は、業者の誘導に従って、決められた区画に遺骨を撒き始めた。散骨後は、土の上に雪が積もったように真っ白になる。だが、それも1年もすれば土に同化してしまことだろう。前回のツアーで撒かれた遺骨は、すでに土色に変化していた。散骨から数年経った場所に目を転じると、ヤマブキなどの草木が覆い、完全に自然に還っている印象だ。死者は、時間をかけて、隠岐の島の一部となっていくのである。

 一団は、散骨後に柄杓で水をかけ、手を合わせると、島を後にした。対岸には慰霊所が設置されている。慰霊所からは、お椀を伏せたようなカズラ島を前方に捉えることができる。島に渡れない時や個人で供養に訪れたい時は、ここで島に向かって手を合わせるという。慰霊所が「墓前」なのだ。

 2組の遺族はこのように感想を述べた。

 「母の遺骨をちゃんと散骨できて、安心しました。一区切りつけられた思いです。思えば、母の死をきっかけにして、初めて死や墓のことを考えるようになりました。そしてこの頃、夫婦で余生の送り方をどうするかという話をよくします。母を送るということを通じて自分たちが今後、積極的に生きる道を探れるようになった気がします」(花田)

 「隠岐は、私の住んでいる江津市から対岸にあります。日本海に向かって、叫べば夫に声が届きそうな気がします。今日という日を経験し、私も死後、散骨してほしいと思いました」(田畑)