担当: 山口 晶(やまぐち・あきら)早川書房編集本部
2016年1月14日、村上春樹さんから、レイモンド・チャンドラー『プレイバック』の翻訳原稿が届く。翻訳用の原書を送ったのが2014年末だったので1年強での訳了ということになる。
村上さんの原稿はいつも突然に届く。そもそも締切をきちんと決めていないうえに、怠惰なこちらもあまり進み具合を尋ねたりしないので、なるべくして突然なのだ。今回、村上事務所から「訳稿を送ります」というメールが届いたときは、よい意味で「不意打ち」を食らったように動揺して、自分のデスクですっくと立ち上がってしまった。普段は締切ありきで仕事している編集者には、文字通りのサプライズなのだ。締切日に届かない原稿だってたくさんある。
レイモンド・チャンドラー(1888-1959)は、村上さんがみずからの文学的ルーツのひとつと認めるアメリカ作家だ。私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にしたシリーズと比喩を多用する特徴的な文体で知られ、日本のハードボイルド派に多大な影響を与えた。ただ、かつてはミステリの文脈で読まれることが多かったものの、現在では都市小説、社会派小説、戦後小説など、より幅広い文脈でも読まれている。
代表作としては、ハンフリー・ボガート主演で映画化された『大いなる眠り』や、アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞を受賞した『ロング・グッドバイ』(旧題『長いお別れ』)が挙げられる。『ロング・グッドバイ』は数年前にNHKでドラマ化されたのでご覧になった方もいるだろう。
メトロノームのように
村上さんが、満を持して、そのチャンドラーの新訳シリーズを始めたのが2007年。村上さんが翻訳に関するインタビューでチャンドラーを手がけたいと語っていたので、これ幸いと当時の担当者が声をかけたのだ。『ロング・グッドバイ』を皮切りに、2009年『さよなら、愛しい人』、2010年『リトル・シスター』、2012年『大いなる眠り』、2014年『高い窓』(現在はすべてハヤカワ文庫)とほぼ2年おきに新刊を出してきた。
2016年も、年初の原稿受け取りから1年の編集期間を経て、恒例の年末にチャンドラー最後の長篇『プレイバック』の新訳版をお届けできた。前作『高い窓』(単行本版)からきっちり2年である。
締切がない、加えて催促をしない怠惰な担当編集の存在にもかかわらず、このシリーズが定期的に刊行できているのは、情けない話だが、ひとえに村上さんのおかげである。『プレイバック』を翻訳・校正しているあいだは、今度発表されるという新作長編を書かれていたはずだ。海外での自著のプロモーションがあり、さらには村上柴田翻訳堂という新訳・復刊シリーズ(新潮文庫)を立ち上げて、さらには文庫化も目白押しだった。「誰に頼まれなくても、翻訳のことになると、ついつい手が動いて、仕事が進んでしまう」(『翻訳夜話』文春新書、柴田元幸との共著)という村上さんのことだから、きっと楽しみながら訳されているにちがいない。が、それにしても、この仕事量とメトロノームのような堅実さには頭がさがる。
Powered by リゾーム?