担当:大槻美和 朝日出版社 第二編集部

いきなり話が脇道に逸れてしまって申し訳ないのですが、古代ギリシア人と私たちとでは、色の認識の仕方が違っていたかもしれない、という話を聞いたことはないでしょうか。古代ギリシア人は、私たちが普段そうしているように特定の色合いを「見る」のではなく、むしろ「暗いか明るいか」、つまり明暗を「見て」いたのではないか、という説があるのです。
例えば、緑色をあらわす言葉が、「折ったばかりの小枝」や「蜂蜜」、あるいは汗や涙に対しても使われていたそうです。ホメロスについての長い本を書いていて、作中に謎の色彩表現が頻発することに気づいたグラッドストンさんは、ここで言われているのは緑色という色合いではなく、「みずみずしい明るさ」なのではないか、と考えました。同じくホメロスが使う「ワイン色の海」や「すみれ色の鉄」といった首をかしげたくなるような表現は、古代ギリシア人が色よりも明暗やある種の質感に注目していた証拠ではないか、と。
そういえば、日本語の「赤」も、大昔は「明るさ」と「赤」の両方を指していたらしい……と聞いたことがあります。「赤い」と「明るい」を同じようなものとして感じることは、いまとなっては難しく、なんだか不思議な気がしてしまうのですが。
それにしても、どうして時代が下ると、明暗よりも色合いを「見る」ようになったのでしょうか。あるいはまた、色を指し示す語彙が、それとして分化していったのでしょうか。
この問いに対してグラッドストンさんは次のように答えています。それは、のちの時代の人びとが、人工の絵の具や染料を目にするようになったためだ、と。つまり、特定の素材から「色」だけを切り離し操作する技術、これが認識を変え、語彙を変えた、というわけです。なるほど~!(ガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』より)
フィッシュボーン錯覚を裏表紙で再現
前置きが長くなってしまってすみません。じつはこの話、『触楽入門』とも、大いに関係していると思うのです。当たり前だとばかり思っていた「この感覚」が、じつは当たり前ではないことに気づく。『触楽入門』は、触覚/触感をテーマに、そんなことを試みている本です。
執筆しているのは、新しい触感テクノロジーを伝える活動をしている「テクタイル」のみなさん。工学者やメディア・アーティストなど、様々なバックグラウンドをもつ4人の共著です。
テクタイルの活動の中心となっている仲谷正史さんは、フィッシュボーン錯覚と呼ばれる「触覚の錯覚」を発見した触覚研究者です。
「え? 錯視なら聞いたことがあるけれど、触覚にも錯覚があるの?」と思った方は、この本の裏側にフィッシュボーン錯覚が印刷で再現されているので、ぜひさわってみてください。魚の骨のようなこのパターンを指でなぞると、中央線部分が、じっさいには凸になっているにもかかわらず、凹んでいるかのように感じられるのです。
無色透明の特殊インキを瞬時に紫外線で硬化させる「UV薄盛印刷」という技術を使っています。薄盛で盛り上がるのは数十ミクロン程度と言われていて、この薄さでも錯覚がきちんと出るかどうかは初めての試みでした。ちょっと心配でしたが、結果はうまくいき、何度さわっても「!?」という驚きを感じます。
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