その義明さんは西武王国の独裁者として君臨し続けました。
児玉:義明氏の独裁というのは、周りがそういうふうにしたんですよ。つまり義明氏を、担ぐ「みこし」にしたんですよね。かつての康次郎氏の側近たちが、義明をある種の無菌室に入れるような状態にして、王様みたいな扱いをしちゃったわけです。清二氏の場合は生来の独裁者だから。周りがどうこうでなく、彼1人の存在が圧倒的に強すぎた。義明の独裁とはちょっと質が違うという感じですよね。
ただ、清二氏が「凡庸」と評する義明氏も、運命とか業とかの中で、本当に苦悩して生きてきたのだと思います。この2人は運命と闘った人だと思うし、そこには善悪はないでしょう。
清二さんがもう1つ厄介なのは、小説家だからその運命とか業を、どこかで相対化しようとしたと思うんですよ、いろいろな意味で。相対化しようとして、もっと運命とか業がくっきり、はっきりと彼の中ではしてしまったということがあって、二重の意味で辛かったのではないでしょうか。
清二さんの発言はともかく、児玉さん自身の考えとして、康次郎氏には清二氏に事業を継承しようという気持ちはなかったとも書いています。
児玉:100%なかったんだと思います。かつて清二氏がかかわっていた、共産党に対する恐怖感というのは、今の僕たちが思っている以上のことがあったでしょう。当時のいわゆる赤というものに対するイメージですね。第一、清二氏に絶縁状を出しているわけですから。康次郎氏というのは、ある種あれだけの事業を構築しているから人を見る目はあったはずで、堤清二氏の持っている危険性、危険なにおいというのは感じ取っていたと思いますね。
遺言の聞き役が、感じたこと
一方で、その危険性のようなところが、何か先鋭的な事業を生み出すエネルギーにもなっていたような気がします。そうした個性が大衆を魅了した面があるのではないですか。
児玉:ただ、康次郎が活躍した、昭和30年代、40年代の「大量生産の大量消費」のような世の中では、時代があまり個性を求めなかったというのもあるのだと思います。鉄道にしろ、ホテルにしろ、ちゃんと継承してくれればいいよと、父親は思っていたんだと思います。清二氏の頭の良さもわかっているし、任せると本当に何をやり出すか分からないというような、そういう感じは持っていたのでしょう。
西武の堤康次郎、東急の五島慶太という二人は、戦後、半ば強引ともいえる事業拡大でライバルとも言われました。東急の方は、西武よりもかなり早く、いわゆる一族以外の経営に移行していますね。他の私鉄グループなどと比較しても、堤家の日本での存在感は突出していました。
児玉:政財界に一定以上の影響力を持つファミリーとしての存在は、もうたぶん堤家で終わりだと思いますね。地方に行けば、地方豪族みたいな感じの一族はあるけれど、永田町にある種の影響力があります、霞が関に影響力がありますという家があるかというと、もうないと思いますね。
さっき遺言の聞き役というふうに言ったんですけど、彼が語ったことというのは、ある意味、堤王朝の落日の歴史という面があったから、やはり哀れに感じました。
2000年以降、清二氏がつくったセゾングループが順次、「解体」されていきました。そして、間もなく西武鉄道グループが、義明氏らの逮捕などで危機に陥りました。栄枯盛衰を感じさせる結果となりました。
児玉:そうですね。だから、康次郎のつくった西武グループから、大きな枝が2つ育って、その枝が育ち過ぎたが故に幹を、崩壊させてしまったのかもしれませんね。結局、母を異にする兄弟が競い合った結果、こういうことになってしまったのですね。
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