最初、彼が応じるインタビューは1回だけで、時間も1時間ということだったのですが、秘書が「もう、2時間を超えていますよ」というと、清二氏は「じゃあ、児玉さん、今日はこれで終わりにして、もう1回やりましょう」と言ったのです。私は本当に奇跡だと思いました。彼は記者というものを嫌っていると思っていましたから。

 でも、結局、インタビューは計7回になりました。弟の猶二氏や、ほかの親族の方に聞いても、そんなに同じ記者に何度も会うなんていうことは今まで聞いたこともありませんと、言われました。親族の方と、何で児玉さんが選ばれたんですかねというような話にもなりましたが、今、ちょっと冷静な目で見れば、僕が堤清二氏の遺言の聞き取り人だったんですよ、ある意味で。

インタビューの翌年、2013年の末に亡くなりました。確かに本を読むと、遺言のような響きがありますね。

児玉:何かに導きを受けて出来上がったような本なのです。なぜ彼が遺言を話そうとして、託されるのが僕だったのかということは、全然分からないという感じです。彼の胸の内、父への思い、母への思いなど、公にされることはなかったことを、全部しゃべり始めたのですね。例えば、清二氏のお母様の妹2人とも、父親の康次郎が関係を持っていたということなど、巷間言われていたことですが、清二氏が認めるわけですよ。これはもう本当に堤家にとっては、口外できないような恥部なわけですよね。そういうような堤家の暗部まで全部、ある種さらけ出してくれたみたいなところがあった。本当に驚きながら聞いていたというのが実感ですね。

インタビューを重ねるごとに、話す内容も深まっていったようですね。

児玉:本当に驚きました。時に涙を浮かべて話すのです。85歳だけど生々しい表情をするわけですよ、生への執着も感じました。表情は万華鏡のように変化するのです。やっぱり僕は、堤清二氏は天才だと思っているので、そういう人間のメッセージを、生の声を共有できている幸福感というのも、すごくありましたね。

1980年代まで堤清二氏は、事業家そして文化人として華々しい活躍ぶりでした。児玉さんは、もともと彼にどんな印象を持っていましたか。

児玉:一言で言うと、こんな人は上司にしたくないという(笑)。厄介だと思いますね、やっぱり天才だから。部下が胸の内を忖度するということができなかったのではないでしょうか。ソフトバンク創業者の孫正義氏も、孫正義として自己完結しちゃっている。ソフトバンクのDNAなんて多分ないですよ。継承のしようがない。堤氏も孫氏も、その意味ではロールモデルには全くならないのですね。ある種、畏怖する対象であり仰ぎ見る存在ではあるけれども、続く人たちのロールモデルとなることで、組織体が生き延びるというものではないでしょう。やっぱりセゾンは、堤清二氏の一大芸だったのです。清二氏は、父ができたことが自分はできないわけはないというような思いを、ものすごく持っていた。セゾンはそのための、壮大な実験だったのです。

父に愛されたという幻想

事業家として成功した父への激しい対抗心ですね。児玉さんは本の中で、清二氏が父・康次郎の事業をどう評価していたかについても書いています。「戦後は地主になっていった」という息子からの突き放した評価が印象的でした。

児玉:基本的には、あんなものは不動産屋でしょうと思っているのです。ただ、土地を手に入れて、ひと山当たったんでしょうというぐらいで、そこに知恵もなければ、知性もないと彼は思っているのです。清二氏が事業の中でも「文化」を打ち出したのは、父親を反面教師にしようというのが、ものすごく強かったのだと思いますね。

 かつてセゾングループの幹部だった人から聞きましたが、西武百貨店ではかつてワンフロアを美術館に使っていて、もし売り場にしたら年間150億円か200億円の売り上げを出せるはずだったそうです。しかし売り場にせずに、毎年数十億円の赤字を出す美術館をやっていたわけですから。実利を求めればそんなことをしなかっただろうし、実利以上の価値があるのだと、彼は思っていたのでしょう。

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