例えば、私は家のそばの商店街で書店などがどこにあるのかはよく知っています。それでも何年も暮らしていて、ある日たまたま、ああこんなお店や建物があると気づくことがあります。誰にでもそうした経験があるでしょう。

 絵も同じことがいえると思います。どうしても自分にとって興味があることしかみないようになりがちです。

 絵には意識しないと気づかないことがたくさんあります。画家自身も気づく人が気づけばいい、と描いていることもあるでしょう。

 知ってほしいのは、画家はみたままを描くわけではないということです。同じ題材でも画家によって描き方は違うし、何を書き込んでいるか、逆に何を描かなかったかが違います。描かれた絵の内容が史実と違うこともあります。画家はどういうふうにすれば、みる人にどんな効果を与えるかを計算の上で描いています。だからこそ、絵には「読む面白さ」があるのです。

 絵に興味がない人でも、例えばナポレオンの絵をみると立ち止まるでしょう。なぜかと言えばナポレオンを知っているからです。ナポレオンはこういう人だったと知っていて、「あのナポレオンをこう描くのか」と思うからこそ、立ち止まるのです。つまり知っていれば面白い、のです。

美貌を生かした人もいれば生かせなかった人もいる

最新作である『美貌のひと』では、ひとの美しさをテーマにしています。

中野:美術にはそもそも美を描きたい、というところからはじまっている面があります。それでも、美貌と一口に言っても、女性も男性もいるし、美しさは時代や国によって基準が大きく違います。美貌というキーワードにすることによって、さまざまなことがみえてくると考えました。

 描かれたのが実在の人物の場合、絵のなかの「美しい人」はどんな人生を歩んだのか、どんな人だったのか。美貌を生かした人もいれば、せっかくの美貌が生かせなかった人もいます。美貌と幸せな人生は必ずしも一致しないのです。そこから絵一枚ごとのストーリーが浮かび上がります。こうして絵をめぐるさまざまなことを知ることによって、美術館で絵をみる楽しみが増えていきます。

 本のカバーに「忘れえぬ人」という絵を選んだのは、日本でややなじみがないロシア絵画をもっと知ってほしいと考えたからです。

 イタリアやフランスの画家は日本で比較的知られていますが、ロシアにも優れた画家がたくさんいます。「忘れえぬ人」を描いたのはクラムスコイ。描かれた人物の謎めいた表情は、みた人がそこから物語を作りたくなるほどの魅力がありますが、それだけではありません。