池上:まあ、北朝鮮の手口も、お手軽になった、ということですよね。

手嶋:1987年の大韓航空機爆破事件では、時間もコストもかけて、金賢姫というエリート工作員を、自国内で訓練する“余裕”がありました。でも、いまや大きな方向転換をしたのです。オレオレ詐欺と同じで、「出し子はアウトソーシングすればいい」と、現地でスカウトをするようになった。出し子クラスがいくら捕まっても、北朝鮮はなんの痛痒も感じないはずです。

池上:あの事件では、現地でオペレートしている人間にすら、情報を与えていないでしょう。

手嶋:手口はお手軽ですが、暗殺にVXガスを使っている。国家の介在はあきらかですよ。コンビニ一つ作るにも独裁者の裁可が必要な国なのです。だから、最高権力者の許可なしにその兄を暗殺することなんて、できるわけがない。しかし、この事件はこのまま迷宮入りしてしまう可能性があります。

金正男来日事件で見せた日本の稚拙さ

池上:金正男といえば、2001年に彼が日本に来たときに、当時の政府が取った対応は、ものすごく稚拙でした。

手嶋:ぼくはワシントンにいたので、直接、現場で取材はしていないのですが、事件当時、アメリカのその筋が、「なんで日本はすぐに帰しちゃったんだ。我々は怒っている」と、と憤懣やるかたない様子でした。

池上:当時の外務大臣だった田中真紀子がパニックに陥って、「早く返しなさい」ということになってしまったんですよ。このとき、正男の一行はシンガポールから日本に入りましたよね。その情報は、イギリスのMI6から日本の公安調査庁に連絡があったのですが、同じ法務省の入国管理局に伝達された。

 実は成田空港では、独自に日本国内で情報を得ていた警視庁の公安が待ち構えていたのです。それこそ正男が東京の赤坂や新宿で、どんなところに出入りして、どんな人たちと会っているのかを知るのに、またとないチャンスじゃないですか。公安は北朝鮮とつながる場所や組織を全部見てから、出国時に捕まえるつもりだった。ところが、いつまでたっても正男は空港の外に出てこない。

手嶋:あれ、外務省のアジア局のナンバーツーがエスコートして飛行機の席まで用意して、帰しちゃったんです。金正男の指紋は採ったけれど、DNAは採取しないまま。その翌年に、小泉純一郎首相と金正日委員長による「日朝平壌宣言」を発表する交渉が、水面下で進んでいました。当時の日本の外交当局は、北朝鮮側を腫れ物に触るように扱っていた。そうした誤った宥和主義の果てに、正男を送り返してしまったんです。その責任は重いと思います。

池上:DNA情報などは、インテリジェンスにとって、ものすごく有利なカードですからね。今回だって、その情報があれば「これは間違いなく金正男本人か」を、日本のカードだけで確認することができて、国際社会に恩義を売ることができた。

そもそも日本のインテリジェンスは、弱いのですか。それとも意外に強いのでしょうか。

手嶋:G8の中で対外インテリジェンス部局がない唯一の国が日本です。

ということは、弱い。

池上:極めて弱いです。

手嶋:その中で、外務省と警察がインテリジェンスを担っています。しかし外務省は非合法やグレーゾーンでは動けません。ということは、インテリジェンスとして機能するわけがない。海外で活動する場合は、そもそも、どこがグレーゾーンなのか、それすらはっきりしない世界なのですから。

池上:それはまずいということで、日本はインテリジェンス要員を育てようとしているのですが、そこでまた、外務省と警察庁が主権をめぐっていがみ合っています。
 お互いに近親憎悪みたいなものがあるんでしょうね。インテリジェンス機関を作りたい、ということになった途端、関係者が私のところに、「ご説明にうかがいたい」とか言ってくるんです。

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